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人、一たびしてこれを能くすれば、己これを百たびす|中国古典 名言に学ぶ

第六章 人ひと、一ひとたびしてこれを能よくすれば、己おのれこれを百ひゃくたびす - 人一能之己百之 -   中庸 宋朱熹章句 第二十章 (中庸:もと「礼記」中の一篇であったが、後に四書の一つに数えられた。 孔子の孫の子思の撰と伝えられている。) 【原文】 有弗學、學之弗能弗措也。 有弗問、問之弗知弗惜也。 有弗思、思之弗得弗惜也。 有弗辨、辨之弗明弗惜也。 有弗行、行之弗篤弗惜也。 人一能之己百之、 人十能之己千之。 果能此道矣、 雖愚必明、雖柔必強。 【書き下し文】 学まなばざること有あり、之これを学びて能よくせざれば措おかざるなり。 問とわざること有あり、之これを問といて知しらざれば惜おかざるなり。 思おもわざること有あり、之これを思おもいて得えざれば惜おかざるなり。 弁べんぜざること有あり、之これを弁べんじて明あきらかならざれば惜おかざるなり。 行おこなわざること有あり、之これを行おこないて篤あつからざれば惜おかざるなり。 人ひと一ひとたび之これを能よくすれば己おのれ之これを百ももたびす、 人ひと十とたび之これを能よくすれば己おのれ之これを千ちたびす。 果はたして此この道みちを能よくすれば、 愚ぐと雖いえども必かならず明あきらかに、柔じゅうと雖いえども必かならず強きょうなり。 【意解】 学まなばないということもある、 だがいったん学び始めたらよく分かるまでは途中でやめない。 問とわないということもある、 だがいったん質問しつもんしたらよく分かるまでは途中でやめない。 思索しさくしないということもある、 だがいったん考えたらよく分かるまでは途中でやめない。 弁別べんべつできないということもある、 だがいったん弁別しようとしたらよく分かるまでは途中でやめない。 実行じっこうしないということもある、 だがいったん実行しようと決めたら真剣に実行し途中でやめない。 他人が一回するのであれば、自分は百回行い、 他人が十回するのであれば、自分は千回行う。 このように道たおの実践じっせんに努力どりょくすれば、愚者ぐしゃといえども必かならず賢明けんめいになるし、 意志いしが柔弱じゅうじゃくな者ものも必かならず意志が強い者に変身へんしんすることが出来るという。 誰しも、楽な道を選ぶものですが、そんな楽な道ばかり選んでいたのでは、 短い人生、振り返れば自分に誇ほこれることを何も残せず、終えてしまうだろう。 此この一文を心に留とどめ、奮起ふんきする所では「人、一たびしてこれを能くすれば、己これを百たびす」を心がけたいものですね。 菜根譚に「磨礪は当に百錬の金の如くすべし、急就は邃養にあらず」とある。自分自身を磨き上げるには、繰り返して練り鍛える金属のようにすべきで、簡単(インスタント)に行う修養であってはいけない。ましてや技術ではなく、「人間」を鍛えるとなれば、格段の難しさがあるに違いない。十年、二十年どころか、おそらく一生の仕事になるだろう。しかし、それをやった人間とやらなかった人間の違いは、おのずから風格に現れてくる。顔ひとつとってみても、それをやった人間は「いい顔」になってくるし、やらなかった人間は「ふやけた顔」になってしまう。 人の体は正直なものであると、恐ろしくも感じる。鏡を見て自分を確認し・・・戒めることも必要だろう。 *参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、 自分なりに追記や解釈して掲載しています。 私たちは、日々、何をするにしても 大なり小なり、決断(選択)をしている その折々に思い出し、 より善い選択(決断)ができるように 貴方も私も 在りたいですね。

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