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人みな有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり|中国古典 名言に学ぶ

第一章 人ひとみな有用ゆうようの用ようを知しりて、無用むようの用よう を知しるなきなり ー人皆知有用之用、而莫知無用之用也。ー  荘子 (荘子:三十三篇。戦国中期の道家荘周とその一門の思想を記したもの。 荘周の撰。外・内・雑編から成り、内編七編以外の大部分は、 後人の仮託になるものといわれている。「南華新経」ともいう。) {原文} 孔子適楚、楚狂接輿遊其門。曰、 鳳兮鳳兮、何如德之衰也。 來世不可待、往世不可追也。 天下有道、聖人成焉。 方今之時、僅免刑焉。 福輕乎羽、莫之知載。 禍重乎地、莫之知避。 已乎已乎、臨人以德。 殆乎殆乎、畫地而趨。 迷陽迷陽、無傷吾行。 吾行郤曲、無傷吾足。 山木自寇也、膏火自煎也。 桂可食故伐之。漆可用故割之。 人皆知有用之用。而莫知無用之用也。 {書き下し文} 孔子楚に適ゆく。楚の狂接興せつよ、その門に遊ぶ。曰く、 「鳳ほうや鳳や、何なんぞ徳の衰えるや。 来世は待つべからず、往世は追うべからざるなり。 天下道あれば聖人成す、天下道なければ聖人生く。 今の時に方あたりては、わずかに刑を免れんのみ。 福さいわいは羽よりも軽し、これを載あぐるを知るなし。 禍わざわいは地よりも重し、これを避くるを知るなし。 己やみなんか己みなんか、人に臨むに徳をもってす。 殆あやうきかな殆きかな、地を畫かくして趨はしる。 迷陽めいよう迷陽、わが行くを傷そこなうことなし。 わが行は卻曲きゃくきょくす、わが足を傷うことなし。 山木は自ら寇あだするなり、膏火こうかは自ら煎つくるなり。 桂は食くらうべし、故に伐らる。漆うるしは用うべし、故に割さかる。 人みな有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり」 {意解} 孔子が楚の国に行ったとき、楚の狂接輿が 孔子の門のあたりをうろつきながら歌った。 「鳳凰よ鳳凰よ、何たる徳の衰えか  未来はあてにならないし、過去は取りもどせない  天下に道のある世なら、聖人はなすべきことをなす  天下に道のない世では、聖人はその命を全うする  今のようなご時世じゃあ、刑を逃れるだけ  幸せは鳥の羽より軽いのに、誰も拾おうとしない  災いは大地より重いのに、誰も避けようとしない  よしなよ、よしなよ、人に徳を押しつけるのは  あぶない、あぶない、大地を仕切って走るのは  バカになれ、バカになれ、わが歩みこそ大切に  遠回りせよ、わが足にけがするな  山の木は我とわが身を損ない、灯火は我とわが身を焼きつくす。  肉桂はなまじ食用になればこそ伐られ、漆はなまじ有用なればこそ割かれる。  人はみな有用の用を知るが、無用の用を知るものはない」  「無用之用」とは無用だと思われているものこそ実は有用なのだという主張である。  「荘子」は、有用性だけを追い求める一面的な価値観から、「無用」なものまで視野に入れ多面的な価値観への転換を説いているのだが、世間の人々はなかなかそれを理解してくれないと嘆いている。  たとえば、ふだんなにげなく交わしている挨拶である。そんなものはなくても、いっこうに差し支えないようにも思えるが、しかし、よく考えてみると、それだけのことが人間関係を円滑にするのに、ずいぶんと役立っていることに気づく。これなども「無用之用」と言ってよいかもしれない。  有用性だけをガツガツ追求している人間は、どこかゆとりに欠けている。人間としてのスケールも小さく、将来の大成も望めないように思う。「荘子」の言う「無用の用」を発見することができれば、人生に新しい展望が開けてくるかもしれない。 史記 扁鵲倉公列伝に「管を以って天を窺う」とある。狭い見識を基準にして、大きな問題について自己流の判断を下すたとえで、視野の狭さを笑った言葉である。この故事こじ「管かんを以もって天を窺うかがう」だが、視野が狭くなるのは、大抵自分が属する組織のなかに埋没まいぼつしているからだと説く。 そうならないためには,普段から別の組織や異業種いぎょうしゅの人間と積極的に交流し合うべきだろう。その中に「無用の用」が見えてくるかもしれない。異業種交流も重要に思える。 *参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、 自分なりに追記や解釈して掲載しています。 私たちは、日々、何をするにしても 大なり小なり、決断(選択)をしている その折々に思い出し、 より善い選択(決断)ができるように0 貴方も私も 在りたいですね。

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