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久しく尊名を受くるは不祥なり|中国古典 名言に学ぶ

  第四章 久ひさしく尊名そんめいを受くるは不祥ふしょうなり ー久受尊名不詳ー    史記 貨殖列伝 (史記:百三十巻。前漢の司馬遷が撰した、中国最初の通史です。 上古の黄帝から、漢の武帝までの歴史を紀伝体で記しています。) 貨殖列伝:  越王勾践えつおうこうせんに仕えた范蠡はんれいという人物がいた。B.C.497、勾践こうせんは、范蠡はんれいの諫止かんしをきかず、 呉王夫差ごおうふさと夫椒山ふしょうざん(江蘇省太湖の西洞庭山)で戦って大敗し、数千の敗残兵をひきいて会稽山かいけいざん(浙江省紹興県の東南)に逃れたが、呉軍に包囲されていかんともすることができなかった。 勾践は范蠡の諫言かんげんをきかなかったことを悔くい、その助言を求めた。范蠡は、いかなる屈辱くつじょくにもあまんじて和わを請こい、再起さいきをはかることをすすめる。勾践はそれに従って呉に降伏した。 以来、范蠡は勾践をたすけてひたすら国を富ませ兵を強くすることに努め、刻苦こっく二十年の後、ついに呉をほろぼして「会稽かいけいの恥はじ」をそそぎ、越をして天下に覇はをとなえしめた。勾践が覇者となると范蠡は上将軍と称された。だが范蠡は、「ともに患難かんなんを同じくすべきも、ともに安きに居りがたい」と思い、その一族とともに越を去って斉に移った。  *諫止かんし: いさめてやめさせること。 *刻苦こっく:大変な苦労をすること。  斉で范蠡は、鴟夷子皮しいしひと号して売買に従事し、かつて越の国を富ましめた計然けいぜん(一説に范蠡の著書の名とされているが、しばらく通説に従い范蠡の師としておく)の策にのっとって、物資の過不足を考え、高いときには糞土ふんどを捨てるように惜しみなく売り、安いときには珠玉しゅぎょくを求めるように惜しんで買い入れ、たちまちのうちに数千万の富をきずいた。 *号の鴟夷しいとは皮袋のことで、不要のときには小さくたたむことができるが 物を入れるときには大きくふくらむという意味である。  斉では彼の賢才を見込んで宰相に迎えようとしたが、彼は、「家にあっては千金をもうけ官については卿相けいしょうとなるのは栄華の極み。久しく尊名を受くるは不詳なり。(栄誉が長く続くのは禍わざわいのもと)」と、それをことわるとともに、数千万の財をもことごとく人々に分けあたえて、陶とう(山東省定陶)へ去った。  陶で彼は再び売買をはじめた。この地をえらんだのは、ここが諸侯の国と四方に交通する物資の中心地だったからである。ここで彼は名を朱と変え、よく取引の相手をえらんで時機を見て物資を流通し、また、たちまちのうちに数千万の富をきずいて、陶朱公とうしゅこうと呼ばれた。  彼は十九年のあいだに三度も巨万の利を得、そのうち二度までこれを散じて貧しい人々に分けあたえた。後年老衰すると家業を子孫にまかせたが、子孫もまた巧みに生業なりわいをいとなんでますますその富を大きくしたという。 備考:  「陶朱猗頓とうしゅいとんの富とみ」  猗頓いとんは春秋の魯の人。もと窮士きゅうしであったが、塩と牧畜によって富をきずき、猗氏(山西省安沢県)に居して王公をしのぐ生活をした。そのために猗頓(頓は蓄たくわえの意)という。 ここから、世に富を云々うんぬんする者は、あるいは陶朱公を引きあいに出し、あるいは猗頓の名を言った。ここから富者をさして「陶猗」と言い、その富をたとえて「陶朱猗頓の富」と云う。   「中国故事物語」の記載文より 人は誰でも栄誉を欲しがる。しかし、昇りつめれば転落が始まり、栄誉も長く続ければ禍わざわいのもとになる。 老子 道徳経 下篇に「功遂げ身退くは天の道なり」とある。政界、財界、近くは公司こうし(会社)に於おいても成し遂げた後の 引き際を知覚ちかく(自覚)することは 非常に難しいが、 心の隅に止めておくべきなのかもしれない。 *参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、 自分なりに追記や解釈して掲載しています。 私たちは、日々、何をするにしても 大なり小なり、決断(選択)をしている その折々に思い出し、 より善い選択(決断)ができるように 貴方も私も 在りたいですね。

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