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辞譲の心は礼の端なり|中国古典 名言に学ぶ

第二章 辞譲じじょうの心こころは礼れいの端たんなり ー辞譲之心、礼之端也ー   孟子 公孫丑章句上6 (孟子もうし:七編。戦国中期の儒家孟軻もうかの言行や学説を編集したもの。 性善説や王道論は有名。四書の一つ。) {原文} 惻隱之心、仁之端也。 羞惡之心、義之端也。 辞譲之心、禮之端也。 是非之心、智之端也。 惻隱・羞惡・辭讓・是非、情也。仁・義・禮・智、性也。 心、統性情者也。端、緒也。 因其情之發、而性之本然可得而見。 猶有物在中、而緒見於外也。 {書き下し文} 惻隱そくいんの心は、仁じんの端たんなり。 羞惡しゅうおの心は、義ぎの端たんなり。 辞譲じじょうの心は、禮れいの端たんなり。 是非ぜひの心は、智ちの端たんなり。 惻隱そくいん・羞惡しゅうお・辭讓じじょう・是非ぜひは情じょうなり。仁じん・義ぎ・禮れい・智ちは性しょうなり。 心は性情を統すぶる者なり。端たんは緒いとぐちなり。 其その情なさけの發はつするに因よりて、性さがの本然ほんぜん得えて見みる可べし。 猶物なおも有ありて中なかに在あり、緒いとぐち外そとに見 あらわるるがごときなり。 {意解} 孟子(孟軻もうか)の根本思想「性善説」にある「四端したんの説せつ」の一つである。 人の手足のように、 人には生まれながらにして 惻隠そくいんの心 羞悪しゅうおの心 辞譲じじょうの心 是非ぜひの心 の 四つの心が備わっており そこから 仁じん・義ぎ・礼れい・智ち が芽生めばえるのだという。 一、惻隠の心は仁の端なり 他人に対する親愛の情、優しき心 一、羞悪の心は義の端なり 悪を恥じ憎む心 一、辞譲の心は礼の端なり 譲り合いの心 一、是非の心は智の端なり    善悪を判断する心  人に生まれながらに備わる「四端」を昇華しょうかできれば 人はだれでも尊敬に値する人物になれるのだという。 孟子 離婁上 十一にも「道は邇きに在り、而るにこれを遠きに求む」とある。人の道は、身近な日常生活のうちにある。それを忘れて、人はややもすれば わざわざ高遠のところに道を求めようとする。親を親愛し、年長者を尊敬することそれが人の道である。と云う。 参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、 自分なりに追記や解釈して掲載しています。 私たちは、日々、何をするにしても 大なり小なり、決断(選択)をしている その折々に思い出し、 より善い選択(決断)ができるように 貴方も私も 在りたいですね。

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