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軽諾は必ず信寡なし|中国古典 名言に学ぶ

第四章 軽諾けいだくは必かならず信寡すくなし ー軽諾者必寡信ー    老子 徳経 恩始第六十三 (老子:二巻八十一章。道家の祖。老耽の撰と伝えられるが、老耽が実在したか否かは明らかではない。人為、虚飾を去って、無為自然であるべきことを説いている。別名「道徳経」) {原文} 爲無爲、事無事、味無味。 大小多少、報怨以徳。 圖難於其易、爲大於其細。 天下難事、必作於易、 天下大事、必作於細。 是以聖人終不爲大、 故能成其大。 夫輕諾必寡信、多易必多難。 是以聖人猶難之。 故終無難。 {書き下し文} 無為むいを爲なし、無事ぶじを事こととし、無味むみを味あじわう。 小を大とし少を多とし、怨うらみに報むくゆるに徳とくをもってす。 難かたきをその易やすきに図はかり、大をその細さいになす。 天下の難事なんじは必ず易やすきより作おこり、 天下の大事は必ず細より作おこる。 ここをもって聖人はついに大をなさず。故ゆえによくその大を成なす。 それ軽諾けいだくは必かならず信寡すくなく、 易やすきこと多ければ必かならず難かたきこと多し。 是以ここをもちて聖人すらなおこれを難かたしとす。 故についに難かたきことなし。 {意解} 「爲無爲、事無事、味無味」 老子の根幹の思想である 「無為自然|あるがままに暮らす」である。 大小、多寡たかに拘かかわらず、憎にくしみに徳とくで報むくいる。 難事なんじはそれが容易よういなうちに取り扱い、   大なるものはそれが小なるうちに扱う。 世間の困難な問題は、それがまだやさしい(芽)のうちに処置する。 世間の大問題と称するものは、   それがまだ簡単であるうちに、処理すべきなのだ。 故に、聖人は“大問題を処理する”などといったことをしないで、 小さなうちに処理をして偉大なことを成し遂げる。  軽々しく約束をする者(安請け合いする者)は、しばしば彼の真義しんぎを反故ほごにして信頼しんらいを失う。物事を軽く考える者は、多くの難事に出合うことになる。故に聖人は、些細ささいなことでも難事なんじと考えて処置する。だから,困難に直面することがない。  「軽諾けいだく」というのは、軽々しく「承知しました」などと安請け合いをすることである。 したがって、「夫輕諾必寡信」は「安請け合いは不信の元」と訳せる。 私たちが犯しがちな過ちの一つが、この安請け合いである。事情等も考えず、その場の雰囲気につられて「わかりました。何とかしてみましょう」と、相手に希望を持たせるようなことを言ってしまう。 その結果、あとで自分を自分で苦しめることになるばかりでなく、相手の不信まで買ってしまう。よく考えると、これほど割の合わないことはない。 上に立つ者、この「軽諾」のリスクは、かなり重要である。「前言撤回ぜんげんてっかい、失言取り消し」を繰り返していたのでは、部下の信頼を得られず、自らの威信いしんに関わってくるからだ。 下手に雄弁であるよりも、寡黙かもくを心がけたほうが良いのかもしれない。   *参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、 自分なりに追記や解釈して掲載しています。 私たちは、日々、何をするにしても 大なり小なり、決断(選択)をしている その折々に思い出し、 より善い選択(決断)ができるように 貴方も私も 在りたいですね。

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