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遇と不遇は時なり|中国古典 名言に学ぶ

第五章 遇ぐうと不遇ふぐうは時ときなり ー遇不遇者時也ー  荀子 宥坐篇 第二十八 (荀子:二十巻。戦国時代末期の学者、荀況の書。孟子に次ぐ大儒で、 孟子の性善説に対して、荀況は性悪説を唱えた。) {原文} 賢夫不肖者、材也。 為不為者、人也。 遇不遇者、時也。 死生者、命也。 今有其人、不遇其時、 雖賢、其能行乎! 苟遇其時、何難之有! 故君子博学深謀、修身端行、 以俟其時。 {書き下し文} 賢夫不肖けんぷふしょうとは、材なり。 為ためと不為ふためとは、人なり。 遇ぐうと不遇ふぐうとは、時なり。 死生とは、天命なり。 今有其人有るとも、 其の時に遇わざれば 賢けんたりと雖いえども、 其それ能よく行われん乎かな。 苟いやしくも其時そのときに遇あえば、何の難かたきこと之これあらん。 故ゆえに君子は博学深謀はくがくしんぼうし、修身端行しゅうしんはぎょうして、 以もって其時そのときを俟まつ。 {意解}  孔子が弟子を引き連れて諸国遊説の旅を続けていたとき、ある国で政争に巻き込まれ、空きっ腹を抱えて何日も立ち往生した時である。子路という弟子が、「君子でも、こんな惨めな思いをすることがあるのですか」と食ってかかったところ、孔子はこの言葉を引いて子路の不満をなだめたという。 「遇ぐう」とは、何をやってもトントン拍子に進むこと、「不遇ふぐう」とは、その反対に何をやってもうまくいかないこと。それは、「時」を得るかどうかにかかっているというのだ。誰の人生にも、遇と不遇がついてまわる。問題は不遇な時の過ごし方だ。そんなとき、へんに卑屈ひくつになったり、ジタバタ悪あがきをしていたのでは、将来の展望がない。  さらに孔子はこう付け加えている。「身を修め行いを端ただしくして、以もってその時を俟まて」そんなときこそ、じっくりと自分を鍛えながら、ツキが回ってくるのを待て、というのである。孔子のような立派な人物でも、世の中に容いれられずに不遇に終わることがある。どんなに優れた人物でも、時勢じせいに合わなければ埋うもれてしまうものである。 その時世に遇いさえすれば、何のむずかしいことがあろうか。故に君子は、学を博ひろめ深く考えを巡らし、身を修め行いを端ただし、後はただ時世の至るのを待つのである。 菅子 霸言第二十三にも「備えを以って時を待ち、時を以って事を興す」とある。どんな事でも、十分な下準備をして始めなければ、事は成らない。万全の準備で臨んでも、その善い時でなければ、失敗しかねない。それが「菅子」のこの言葉である。 *参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに 自分なりに追記や解釈して掲載しています。 私たちは、日々、何をするにしても 大なり小なり、決断(選択)をしている その折々に思い出し、 より善い選択(決断)ができるように 貴方も私も 在りたいですね。

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