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禍は足るを知らざるよりも大なるはなし|中国古典 名言に学ぶ

第二章 禍わざわいは足たるを知しらざるよりも大だいなるは莫なし ー禍莫大于不知足ー   老子 第46章 (老子:二巻八十一章。道家の祖。老耽の撰と伝えられるが、 老耽が実在したか否かは明らかではない。 人為、虚飾を去って、無為自然であるべきことを説いている。別名「道徳経」) {原文} 天下有道、 却走馬以糞、 天下無道、 戎馬生於郊。 罪莫大於可欲、 禍莫大於不知足、 咎莫大於欲得。 故知足之足、常足。 {書き下し文} 天下に道有みちあれば、 走馬そうばを却しりぞけて以もって糞ふんさせ、 天下に道無みちなければ、戎馬郊じゅうばこうに生しょうず。 可欲かよくより大だいなる罪つみは莫なく、 禍わざわいは足たるを知しらざるよりも大だいなるは莫なく、 得えんと欲ほつするより大だいなる咎とがは莫なし。 故ゆえに足たるを知しるの足たるは、常つねに足たるなり。 {意解} 天下が道で治められているなら、 伝令の早馬は農耕馬として使われるようになるだろう。 天下が道で治められていないなら、農耕馬は戦車の馬として 国境付近で飼育されるようになるだろう。 欲望をちらつかせて他人を煽あおることより大きい罪はなく、 満足を知らないことより大きな災わざわいはなく、 欲ほしがることより大きな過あやまちはない。 ゆえに、足たるを知しるとは あるがままの現実に常に満足することだという。    「欲よく」について調べてみると、 仏教では、眼げん・耳に・鼻び・舌ぜつ・身しん・意い の六根ろっこんから欲よくが生じ、心の働きや行動を決定する際に重要な役割をもつと考えられている。仏教では、人間に「欲」は本能的に具そなわっているもの、諸悪しょあくの根源こんげんとは捉とらえないが、無欲むよくを善ぜんとして推奨すいしょうし、修行や諸活動を通じて無欲に近づくことを求めており、自制じせいではなく欲からの解放を求めている。  しかし、煩悩ぼんのうや欲があるからこそ菩提ぼだいも生まれるという、煩悩即菩提ぼんのうそくぼだいという考えが形成され、大乗仏教だいじょうぶっきょうの中には欲そのものを全否定せず、 一部肯定する考えもある。  アブラハム・マズローは「欲求階層論」を唱え、 低次元から高次元までの、5つの階層をなしている、とし、 低次元の欲求が満たされて初めて高次元の欲求へと移行する、とした。 人間の欲望は必ずエスカレートする。 欲望の赴くところは際限を知らない。そんな欲望に引きずられて突っ走れば、 いずれは必ず足を踏み外す。これが「老子」の認識であり、中国人の認識であった。 「菜根譚」にも * 欹器以満覆、撲満以空全。 欹器いきは満みつるを以もって覆くつがえり、撲満ぼくまんは空むなしきを以もって全まっとうす。 * 花看半開、酒飲微酔 花は半開を看み、酒は微酔びすいに飲む 何事なにごともほどほどがよい、 と云っている。 足たることを知しる「知足ちそく」は すべての物事に溢あふれている現代においては 特に心に戒いましめておく言葉に思う。(吾唯足知) 参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、 自分なりに追記や解釈して掲載しています。 私たちは、日々、何をするにしても 大なり小なり、決断(選択)をしている その折々に思い出し、 より善い選択(決断)ができるように 貴方も私も 在りたいですね。

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