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国のまさに興らんとするや、必ず師を貴びて傳を重んず|中国古典 名言に学ぶ

第八章 国くにのまさに興おこらんとするや、必かならず師しを貴たつとびて傳ふを重おもんず ー国将興、必貴師重傅ー  荀子 大略篇 第二十七 【荀子:二十巻。戦国時代末期の学者、荀況の書。荀況は孟子に次ぐ大儒。 孟子の性善説に対して、荀況は性悪説を唱えた】 原文: 国将興,必貴師重傅。 貴師而重傅則法度存。 国将衰,必賤師而輕傅; 賤師而輕傅,則人有快, 人有快則法度坏。 書き下し文: 国くにの將まさに興おこらんとするや、必かならず師しを貴たつとびて傳ふを重おもんず。 師を貴びて傅を重んずれば、則すなわち法度はっと存そんす。 国將まさに衰おとろえんとすれば、必ず師を賤いやしんで傅を輕かろんず。 師を賤んで傅を輕んずれば、則ち人快かい有り、 人快有らば則ち法度壞やぶれる。 *参考資料:新読荀子 意解: 国が興隆こうりゅうしようとしているときには、必ず君主の師しが貴とうとばれて、君主の傅ふ(養育係)が貴ばれるものだ。 君主の師と傅が貴ばれたならば、人民は我が身を慎つつしむようになるだろう。人民が我が身を慎むようになれば、法度は守られるであろう。 だが国が衰亡すいぼうしようとしているときには、必ず君主の師と傅は軽んじられるものだ。 君主の師と傅が軽んじられたならば、人民は己おのれの快かいをむさぼるようになる。 人民が己の快をむさぼるようになれば、法度は壊こわれるであろう。 「師し」と「傅ふ」を合わせて「師傅しふ」という。尊敬するに足る相談相手、補導役である。 国を興すようなトップには必ずそういう相手がついていたというのだ。 中国三千年の歴史を見ても、たしかにそう言えるように思う。たとえば漢の高祖劉邦りゅうほうには張良ちょうりょうという名軍師がついていたし、また、宋の太祖趙匡胤ちょうきょういんには趙普ちょうふ、蜀の劉備玄徳には諸葛孔明、明の太祖朱元璋しゅげんしょうには劉基りゅうきという名補佐役がついていた。トップの功業は、これらの軍師や補佐役の助けなしには不可能であったと言ってよい。 では、功業を成し遂げるトップに、なぜ「師傅しふ」が必要なのか。「荀子」によれば、そういう人物がついていなければ、「人、快かいあり」だからだという。「人」とはトップ、「快あり」とは自分勝手なことをするという意味だ。つまり、トップの自重自戒じちょうじかいを促うながすうえで、必要なのだという。 してみると、「自重自戒」できないトップには、この「師傅」が不在であるといえる。 韓非子 十過の「小利を顧みるは則ち大利の残なり」の十過目に「国小にして礼なく、諫臣かんしんを用もちいざるは、則すなわち絶世ぜっせいの勢いきおいなり」とある。客観的に視れば、容易にこの「十過」に納得、同意されるだろうが、いざその立場に自分が置かれると、同じような過ちを犯してしまいがちである。それが人の弱さなのかもしれない。 *参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、 自分なりに追記や解釈して掲載しています。 私たちは、日々、何をするにしても 大なり小なり、決断(選択)をしている その折々に思い出し、 より善い選択(決断)ができるように 貴方も私も 在りたいですね。

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