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陰徳ある者は必ず陽報あり|中国古典 名言に学ぶ

  第四章 陰徳いんとくある者は必ず陽報ようほうあり ー有陰徳者必有陽報ー    淮南子 巻十八 人間訓 (淮南子|えなんじ|二十一巻。前漢の淮南王劉安が幕下の学者に命じて、 おのおのの専門について講論させて作った書。) {原文} 聖王布德施惠、 非求其報於百姓也。 郊望楴嘗、非求福於鬼神也。山致其高而雲起焉、水致其深而蛟龍生焉、 君子致其道而福祿歸焉。 夫有陰德者必有陽報、 有陰行者必有昭名。 {書き下し文} 聖王せいおう、徳とくを布しき恵けいを施ほどこすは、 其その報ほうを百姓ひゃくせいに求もとむるに非あらざるなり。 郊望こうぼう楴嘗ていしょうするは、 福さいわいを鬼神きしんに求もとむるに非あらざるなり。山は其その高たかきを致いたして雲くも起おこり、 水は其その深ふかきを致いたして蛟竜こうりゅう生しょうじ、 君子は其その道みちを致いたして福禄ふくろく帰きす。 夫それ陰徳いんとく有ある者は必かならず陽報ようほう有あり、 陰行いんこう有る者は必ず昭名しょうめい有あり。 {意解} 善行とは人に認めてもらいたいからするものではなく、人知れず行なうもの。人知れず徳を積む者には必ず誰の目にも明らかなよい報いがあり、隠れて善行をしている者には必ずはっきりとした名誉があるもの。 「陰徳いんとく」とは、人に知られない善行である。同じ善行でも、人の目に触れるようなものは「陰徳」とは言わない。ちなみに、「陰徳猶耳鳴:陰徳は耳鳴りのごとし」(北史)という言葉がある。  耳鳴りというのは、ご承知のように、自分だけに分かって、人にはわからない。 「陰徳」もそのようなものだというのである。  そういう「陰徳」を積んだ者には必ず「陽報」があるのだという。「陽報ようほう」とは、はっきりとそれとわかるようなお返しである。  では、誰がお返しをするのかといえば、天である。人も知らないことでも、天だけはちゃんと見ていてくれる。だから天がお返しをしてくれるに違いない、と中国人は信じてきた。  これを信じるかどうかは、本人の心の問題であろう。ただし、たんに「陰徳」を積めとお説教するのではなく、それを「陽報」と結びつけたところが、中国人らしいといえば言えるかも知れない。 老子 第七十三章に「天網恢恢、疎にして失わず」がある。本当の意味の善悪は、人には計り知れない、私たちが今、目にする表面的な「勇於敢則殺、勇於不敢則活:裁判官が勇気をもって刑を執行すれば罪人は殺され、勇気をもって刑を免除すれば罪人は生き延びる」はそれぞれ時と場合によって良いとされたり悪いとされたりする。人間がその是非を判断するのは困難である。天の判断については人の身では理解を超えていて、これは聖人でさえも知ることは困難である。天が捕える網は、粗い目をしているように見えて決して逃しはしない。悪意も、善意も、と老子は云う。 備考: 淮南子 『淮南子えなんじ』は、前漢の武帝の頃、 淮南王劉安(紀元前179年-紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。 日本へはかなり古い時代から入ったため、 漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。 『淮南鴻烈わいなんこうれつ』ともいう。劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。 10部21篇。『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるが、 「内二十一篇」しか伝わっていない。 道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、 一般的には雑家の書に分類されている。 *参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、 自分なりに追記や解釈して掲載しています。 私たちは、日々、何をするにしても 大なり小なり、決断(選択)をしている その折々に思い出し、 より善い選択(決断)ができるように 貴方も私も 在りたいですね。

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