Tag Archives: 人を恃むは自ら恃むに如かず

人を恃むは自ら恃むに如かず|中国古典 名言に学ぶ

第四章 人を恃たのむは自みずから恃たのむに如しかず ー恃人不如自恃也ー  韓非子 巻第十四 詮言訓 唯嗜魚故不受(公儀休) (二十五巻五十五篇。戦国時代の韓非の選。先秦時代の法家の学を集大成し、 それに韓非の考えを加えたもの。はじめ「韓子」と称したが、宋以後、唐の韓愈と 区別するため、「非」の字を加えた。) {原文} 公儀休相魯而嗜魚。 一国尽争買魚而献之。公儀子不受。 其弟諫曰「夫子嗜魚。而不受者何也。」 対曰「夫唯嗜魚、故不受也。 夫即受魚、必有下人之色。 有下人之色、将枉於法。 枉於法則免於相。 雖嗜魚、此不必能自給致我魚、 我又不能自給魚。 即無受魚而不免於相、雖嗜魚、 我能長自給魚。」 此明夫恃人不如自恃也。 {書き下し文} 公儀休は相魯(魯国の宰相)にして魚を嗜このむ。 一国が魚を献けんずるも公儀休は受けず。 その弟が諌いさめて曰いわく「夫子ふうしは魚を嗜このむも,受けざるは何なんぞなり?」 答へて曰く「それ唯ただ魚を嗜みて,故ことさらに受けず。 それ魚を受けて相そうを免めんぜられば,魚を嗜むと雖いえども自ら魚を給あたふこと能あたはず。 魚を受くること毋なくして相を免ぜられざれば, 側すなわち長く自ら魚を給ふこと能ふ。」 人を恃たのむは自みずから恃たのむに如しかずなり。 {意解}  人の力を当てにするな、自分の力をたのめ、という。  昔、魯の国に魚の大好きな宰相がいた。 国中のものが噂を聞きつけて、我も我もと魚を届けてくれる。 だが、宰相は一つも受け取ろうとしない。 ある者が訳を聞いたところ、こう答えたという。 「いや、なに、好きだからこそ、断るのだ。 受け取れば、世辞の一つも言わねばならん。 やがては相手のために法を曲げることにもなろうというもの。 そんな事をしたら、たちまち免職だ。 免職になれば、いくら魚が好物だからといっても、 誰も届けてくれるものはおるまい。 自分で買って食べることもできなくなるだろう。 今、こうして断っていれば、 いつでも好きな魚を買って食べれるではないか」  この宰相のように、「人を恃む」よりも「自らを恃む」ほうが、 安全で、まともな処世術と言えるかもしれない。 詩経に「我に投ずるに桃を以ってすれば、これに報ゆるに李を以ってす」とある。桃ももをもらったら李すももをもってお返しをするということ。私達は日々の生活の中で、 様々な人から、お互いに恩恵おんけいや恩義おんぎをこうむりながら生きている。 どんな些細ささいな恩義おんぎでも、受けた恩義おんぎには必ずお返しをする(返礼)というのは、 基本的な人生作法の一つである。が 今回の場合は、下心があると思われる! 書経 夏書 五子之歌に「怨み豈に明らかなるに在らんや、見えざるをこれ図れ」とある。言動に表れる前に、目に見えない段階でそれを察知さっちし、手を打つべきである。 そのためには、たえず自分の行動を自問自答し、不満や不信感に繋がりそうな要素を取り除いておくべきで、災いを未然に防ぐ(事先予防)ためには、そういう心構えが必要だと言っている。 *参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、 自分なりに追記や解釈して掲載しています。 私たちは、日々、何をするにしても 大なり小なり、決断(選択)をしている その折々に思い出し、 より善い選択(決断)ができるように 貴方も私も 在りたいですね。

Posted in 着実に生きる | Tagged , , , , | Leave a comment