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吉人の辞は寡く、躁人の辞は多し|中国古典 名言に学ぶ

第四章 吉人きつじんの辞じは寡すくなく、躁人そうじんの辞じは多おおし ー吉人之辞寡、躁人之辞多ー  易経 繋辞下伝 第十二章 (易経:「易」または「周易」ともいう。五経の一つ。卜筮(ぼくぜい)の法によって、倫理道徳を説いたもの。上下の「経」と、その注釈篇である。「十翼」からなり、十翼は孔子の編と伝えられている。) {原文} 將叛者其辭慙。 中心疑者其辭枝。 吉人之辭寡、躁人之辭多。 誣善之人其辭游、 失其守者其辭屈。 {書き下し文} まさに叛そむかんとする者は、その辞じ慙はず。 心中疑う者は、その辞枝わかる。 吉人きつじんの辞は寡すくなく、躁人そうじんの辞は多し。 善を誣しうるの人は、その辞游ゆうし、 その守を失う者は、その辞屈くつす。 *誣しうる:事実を曲げていう。作りごとを言う。 {意解} いまにもそむこうとしそうな者は、易の辞を慙はじる。 心中を疑う者は、易の辞は分れる。 徳のあるりっぱな人の辞は少なく、さわがしい人の辞は多い。 善を偽いつわる人は、その辞はゆらゆらと泳およぎ、 その守りを失う者は、その辞は屈くつする。 「吉人きつじん」とは徳のある立派な人物。    「躁人そうじん」とはその反対である。 「徳のある人物は口数が少なく、徳のない者に限って、言葉を並べ立てる」 言葉というものは、その人の心の動きを正直に映うつし出す。  この「易経」は続けて 「人を裏切ろうとする者は、言葉に後ろめたさが現れる。 心に疑いを持っている者は、言葉に迷いが現れる。 悪を善だと言いくるめようとする者は、論旨に一貫性がなくなる。 信念を持たぬ者は、言葉使いも卑屈ひくつになる」 いずれも、真理だろう   故に、言葉はよく考慮こうりょして、 発言は慎重しんちょうさをもって期きさなければならない。 ペラペラとよく喋しゃべるのは、「百害ひゃくがいあって一利いちりなし」のようである。 菜根譚 前集 72項の「十の語九中るも、未だ必ずしも奇と称せず」に 言っている事の九割が正しいからと言って、必ずしも優れた人間とは言えず、誤った一割の不備に非難が集まることがある。多弁なるが故に失敗した例は数えきれないほど多い。 備考:「易経」の構成 *参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、 自分なりに追記や解釈して掲載しています。 私たちは、日々、何をするにしても 大なり小なり、決断(選択)をしている その折々に思い出し、 より善い選択(決断)ができるように 貴方も私も 在りたいですね。

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