疑心、暗鬼を生ず|疑心生暗鬼|列子 鬳斎口義 説符篇|

第四章 着実に生きる

疑心、暗鬼を生ず
疑心、暗鬼を生ず

第四章 着実に生きる

 

疑心ぎしん暗鬼あんきしょう

ー疑心生暗鬼ー  列子 鬳斎口義 説符篇
(列子:八巻。戦国初期の鄭のひと列御冠の撰とされているが、偽作説もあり。別名「沖虚真経」。)

{原文} (人有亡鈇者 章)

人有亡鉞者、意其鄰之子、
視其行歩、竊鉞也。
顏色竊鉞也。言語竊鉞也。
動作態度、無爲而不竊鉞也。
俄而掘其谷、而得其鉞、
他日復見其鄰人之子、
動作態度、無似竊鉞者。

{書き下し文}

人にえつうしなえる者有り、其の隣の子をうたがう。
行歩こうほるに、えつぬすめるなり。
顔色がんしょくえつぬすめるなり。言語げんごも鉞を窃めるなり。
作動さくどう態度たいどすとしてえつぬすまざるは無なし。
にわかにして其の谷をりて、其の鉞をたり、
他日たじつまた其の隣人りんじんの子を見るに、
動作どうさ態度たいど、鉞を窃めるにたる者無し。

*参考資料:説符の注解(林希逸『沖虚至徳真経鬳斎口義』) 鬳斎口義

{原文} 

此章猶諺言。
諺曰、 疑心生暗鬼也。
心有所疑、 其人雖不竊鉞、
而我以疑心視之、 則其件件皆可疑。

{書き下し文}

しょう諺言げんげんのごとし。
ことわざいわく、 疑心ぎしん暗鬼あんきしょうず、と。
こころうたがところれば、の人えつを窃まずといえども、
われ疑心ぎしんもっこれれば、
すなわち其の件件けんけんみなうたがし。

疑心、暗鬼を生ず
疑心、暗鬼を生ず


{意解}

疑わしき目で見れば、すべてのことが疑わしく思われてくるのだという。
「列子」に、紹介された話である。   

 ある男がえつ(まさかり)をなくした。 隣の息子が怪しいと思った。
その息子の歩き方を見ると、どうも盗んだようだ。
顔つきも盗んだようだ。ことばつきも盗んだようだ。

やる事なす事、みなえつ(まさかり)を盗んだように見えてくる。  

ところがその後、谷間を掘っていると、思いがけずえつ(まさかり)が見つかった。
それからは、隣の息子のやることなすこと、 盗んだようには見えなかったという。  

 自分の思い込みで、 罪のない者まで疑わしく見えたという話である。
これに類する話は、誰にでもあるだろう。
誤った偏見へんけん先入観せんにゅうかんによって判断をまどわされるのである。
自分の判断力でも、無条件の信頼など置かない方が良いのかもしれない。

文選 古楽府 君子行に「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」とある。
瓜や李を盗み取ろうとしたのではないかと疑われるからである。
誰しも、人から疑われるのは気持ちのよいことではない。
なかには、ぎぬを着せられて、 腹立たしい思いをした人も、
多くいるに違いない。
だが、人から疑われる原因を、
自ら作っているようなケースもあるように思う。
たとえば、
不注意な言動とかふしだらな行為などは、人の疑いを招きやすい。
それをけるためには、普段から厳しく自分をりっする必要がある。
人から疑われてとくになることは、一つもないのである。

菜根譚 後集第五十八項に
熱鬧の中に一冷眼を着くれば、便ち許多の苦心思を省く」ともある。
あわただしく動き回っている状態で、そういう中にあっても、
冷静に辺りを見回すだけの余裕があれば、
多くの真の物事の持つ意味を理解できる、という。
体は動き回り、頭は目まぐるしく回転していても、
心はいつも冷静でなければならない。

そのためにはまた気持ちに余裕が欲しいのだという。
そうすれば、誤った偏見へんけん先入観せんにゅうかんによって
判断を誤ることも減るのかもしれない。

*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。

私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。