第二章 自己を高める
磨礪は当に百錬の金の如くすべし、急就は邃養にあらず
ー磨礪当如百錬之金、急就者非邃養ー 菜根譚
(菜根譚:明の洪自誠編。前集222条では人との交わり、事治、対応の道を説き、後集135条では退静閑居の楽しみを論じている)
{原文}
磨蠣当如百煉之金、
急就者非邃養。
施為宜似千鈞之弩、
軽発者無宏功。
{書き下し文}
磨蠣は当に百煉の金の如くすべし、
急就は邃養に非ず。
施為は宜しく千鈞の弩の似く、
軽発は宏功無し。
{意解}
自分自身を磨き上げるには、繰り返して練り鍛える金属のようにすべきで、
簡単(インスタント)に行う修養であってはいけない。
起業する場合は、 強靭な弓を放つ時のように慎重にすべきで、
軽薄な起業では成功はしない。 つまり、
何事にも成果を出すには、慎重且つ堅実に行えということである。
わかりやすい例は技術の習得であろう。
若い弟子のほうは素人目にもそれとわかる未熟さが見えるが、
師匠、先生と呼ばれている人物の仕事ぶりは、その手順といい動きといい、
迷いがなく、寸分のムダもなかった。さすがに年季の入った職人はちがうと、
改めて感じさせられる。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
ましてや技術ではなく、「人間」を鍛えるとなれば、格段の難しさがあるに違いない。
十年、二十年どころか、おそらく一生の仕事になるだろう。しかし、
それをやった人間とやらなかった人間の違いは、おのずから風格に現れてくる。
顔ひとつとってみても、それをやった人間は「いい顔」になってくるし、
やらなかった人間は「ふやけた顔」になってしまう。
人の体は正直なものであると、恐ろしくも感じる。
鏡を見て自分を確認し・・・戒めることも必要だろう。
*磨蠣 :研いで鋭くする、学問や技芸などにはげむこと。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。