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剣は砥を待ちて而る後に能く利なり|剣待砥而後能利|淮南子|

剣は砥を待ちて而る後に能く利なり 第二章 自己を高める
剣は砥を待ちて而る後に能く利なり

第二章 自己を高める

 


けんちてしかのちなり

ー剣待砥而後能利ー   淮南子
淮南子えなんじ:二十一巻。前漢の淮南王劉安が幕下の学者に命じて、
おのおのの専門について講論させて作った書。)




{原文}

 
剣待砥而後能利




{書き下し文}

けんちてしかのちなり

剣は砥を待ちて而る後に能く利なり

剣は砥を待ちて而る後に能く利なり




{意解}

剣は、砥石といしにかけて丹念たんねんみがきあげなければ、鋭い切れ味が生まれてこない。
又、鋭い剣でも、長く放置しておけば、さび付き使い物にならなくなる。
それと同じで、人間も自分を「賢い人間」、立派な人間に育て上げるには、
日常の修養を怠ってはならない、といっている。  

「日常の修養」意味は明瞭ではあるが 、では何をすべきなのか、である。
わかりやすい例は技術の習得であろう。

菜根譚に「磨礪は当に百錬の金の如くすべし、急就は邃養にあらず」とある。
若い弟子のほうは素人目にもそれとわかる未熟さが見えるが、
師匠、先生と呼ばれている人物の仕事ぶりは、その手順といい動きといい、
迷いがなく、寸分のムダもなかった。さすがに年季の入った職人はちがうと、
改めて感じさせられる。
ましてや技術ではなく、「人間」を鍛えるとなれば、
格段の難しさがあるに違いない。
十年、二十年どころか、おそらく一生の仕事になるだろう。
しかし、それをやった人間とやらなかった人間の違いは、
おのずから風格に現れてくる。顔ひとつとってみても、
それをやった人間は「いい顔」になってくるし、
やらなかった人間は「ふやけた顔」になってしまう。
人の体は正直なものであると、恐ろしくも感じる。

鏡を見て自分を確認し・・・戒めることも必要だろう。

孟子 離婁上 十一に「道は邇きに在り、而るにこれを遠きに求む」とある。
孟子、その道徳観は 四端説したんせつと呼ばれるもので、 

*他人を愛する心(惻隠之心そくいんのこころ|仁)、
*人は恥を知って初めて自らの行いのあり方を問う(羞悪之心しゅうおのこころ|義)、
*自らが一歩退いて人に譲ろうとする心(辞譲之心じじょうのこころ|礼)、
*良い、悪いを正しく見分けることのできる心(是非之心ぜひのこころ|智

これらの人に生まれながらに備わる「四端」を昇華できれば、
人はだれでも尊敬に値する人物になれる。と云っている。
孟子が説くように 自分の心の中にある「四端」を自覚して、まずは、
自分自身から 「人の道」をしっかりと歩きたいものである。

*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。

私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。