世に伯楽あり、然る後に千里の馬あり|文章規範 韓愈 雑説|
第六章 成功の心得
世に伯楽あり、然る後に千里の馬あり
ー世有伯楽、然後有千里馬ー 文章規範 韓愈 雑説
{文章規範:七巻。宋の謝枋得の編。科挙受験者のために規範となりうる分を集めたもの。諸葛孔明の「出師の表」と陶淵明の「帰去来辞」以外は、唐宋の文を選んでいる}
{原文}
世有伯楽、然後有千里馬。
千里馬常有、而伯楽不常有。
故雖有名馬、秖辱於奴隷人之手、
駢死於槽櫪之間、不以千里称也。
{書き下し文}
世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。
千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
故に名馬有りと雖も、秖だ奴隷人の手に辱められ、
槽櫪の間に駢死して、千里を以って称せられざるなり。
*槽櫪:馬小屋。
*駢死:首を並べて死ぬこと。
{意解}
世の中には伯楽(馬を見分ける名人)がいてこそ、
1日に千里も走る馬が存在する(伯楽が能力の高い馬を見出すから)。
千里の馬となる素質をもった馬はつねに世の中に存在するが、
伯楽はつねにいるというわけではない。
ゆえに、名馬がいたとしても、(その素質を見抜かれないために)
その馬は使用人の手によって粗末に扱われ、
馬小屋(槽櫪)の中で他の馬と一緒に首を並べて死んでしまい(駢死)、
千里を走るという名声を得ることもできないのだ。
このように、千里の馬(駿馬・名馬)は
伯楽がいてこそ見出されるのである。
人も同じことである。
どんなに才能を持ち合わせていても、
それを見出してくれる名伯楽に出会わなければ、
その才能を開花させることは 難しい。
史記 呂不韋伝に「奇貨居くべし」とある。
呂不⾱は全財産をはたいて⼦楚の擁⽴に賭け、成功させる。
ちなみに⼦楚の⼦が秦王政、後の始皇帝である。
呂不⾱のようにチャンスを⾒逃さず、すばやく⾏動に移す、
これが⼈⽣の運命を分けるようである。私から見れば、
この人物(呂不⾱)が名馬を見出す白楽に思える。
(先⾒の明)
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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