蹞歩を積まざれば、以って千里に至るなし|荀子 勧学編 九|

第六章 成功の心得
蹞歩を積まざれば、以って千里に至るなし
ー不積蹞歩、無以至千里ー 荀子 勧学編 九
(荀子:二十巻。戦国時代末期の学者、荀況の書。荀況は孟子に次ぐ大儒。
孟子の性善説に対して、荀況は性悪説を唱えた。)
{原文}
不積蹞歩、無以至千里。
騏驥一躍,不能十步。
駑馬十駕,則亦及之。
功在不舍。
{書き下し文}
蹞歩を積まざれば、以って千里に至るなし。
騏驥も一躍にして十歩なること能わず。
駑馬も十駕すればまた之に及ぶ。
功は舎めざるにあり。
*蹞歩:片足を踏みだすこと。半歩。

{意解}
『荀子』は「性悪説」で有名ですが、
それは「天賦の才」生まれ持った素質ではなく、
学習や鍛錬、経験によって人はどのようにでも成長できると言っている。
一歩一歩を積まなければ、千里の道を行くことが出来ず。
足の速い名馬もひと飛びでは、十歩の距離も進めず、
足の鈍い駄馬も十日の行程を費やせば、
名馬の一日の行程に追いつくことができる。
このようなことができるのは日々に継続して努力するからである。
「蹞歩」とは、右足なり左足なりを一歩前へ進めること。千里の道も
そういう一歩を積み重ねていくことによって到達するものだという。
これもまた、普段の努力の大切なことを語った言葉に他ならない。
「目に見えない努力を積み重ねない者には、
栄誉などおとずれるはずがないし、
目につかぬところで仕事の手を抜く者には、
輝かしい成果などあがるはずはない」
つまり、人目のないところでも手を抜かない。
そんな仕事ぶりが「蹞歩」なのだと、
「荀子」は語っている。
菜根譚にも「磨礪は当に百錬の金の如くすべし、急就は邃養にあらず」とある。
自分自身を磨き上げるには、繰り返して練り鍛える金属のようにすべきで、
簡単(インスタント)に行う修養であってはいけない。つまり、
何事にも成果を出すには、慎重且つ堅実に行えということである。
ましてや技術ではなく、「人間」を鍛えるとなれば、
格段の難しさがあるに違いない。十年、二十年どころか、
おそらく一生の仕事になるだろう。しかし、
それをやった人間とやらなかった人間の違いは、
おのずから風格に現れてくる。顔ひとつとってみても、
それをやった人間は「いい顔」になってくるし、
やらなかった人間は「ふやけた顔」になってしまう。
人の体は正直なものであると、恐ろしくも感じる。
鏡を見て自分を確認し・・・戒めることも必要だろう。
*〔荀子・修身〕
「蹞歩而不休、跛鼈千里:蹞歩して休まざれば、跛鼈も千里ならん」
足の悪いスッポンでも、努力すれば千里の道を行くことができるということ。
*跛鼈:足の悪いスッポン
能力の劣るものでも努力を惜しまなければ成功すると言っている。
備考:
驥一日而千里、駑馬十駕、則亦及之矣 荀子 脩身
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません