第八章 リーダーの心得
我に諂諛する者は吾が賊なり
ー諂諛我者吾賊也ー 荀子 脩身篇
【荀子:二十巻。戦国時代末期の学者、荀況の書。荀況は孟子に次ぐ大儒。
孟子の性善説に対して、荀況は性悪説を唱えた】
原文:
非我而当者吾師也。
是我而当者吾友也。
諂諛我者吾賊也。
書き下し文:
我を非として当う者は吾が師なり。
我を是として当る者は吾が友なり。
我に諂諛する者は吾が賊なり。
意解:
自分を非難してくれる者は自分の先生である。
自分を支持してくれる者は自分の友である。
自分に媚びへつらう者は自分にとって賊である。
「諂諛」は、媚びへつらうこと。
耳に心地よい甘い言葉をもって近づいてくる者は、
みな賊のようなものだという。なぜなら、
ついその気になってのぼせ上がり、
自分を見失ってしまうからである。
之は特に人の上に立つ者の自戒しなければならないことだ。
おべっかや甘い言葉に弱いのは、人間の常である。
きついことを言ってくる相手よりも、心をくすぐるようなことを
言ってくる相手を引き立てたくなるのは、自然な人情である。
現に、どんな組織でも、そういうケースが少なくない。だが、
リーダーがそれをやっていたのでは、二重の意味で不幸である。
第一に、甘い言葉だけを聞かされていたのでは、
進歩も向上も望めず、自分を駄目にしてしまう。
第二に、それは事の軽重の判断を誤る元であり、
其の結果、組織まで駄目にしてしまう。
荀子 大略篇 第二十七に
「国のまさに興らんとするや、必ず師を貴びて傳を重んず」とある。
国を興すようなトップには必ずそういう諫臣がついていたという。
「荀子」によれば、そういう人物がついていなければ、
「人、快あり」だからだという。「人」とはトップ、
「快あり」とは自分勝手なことをするという意味だ。つまり、
トップの自重自戒を促すうえで、必要なのだという。してみると、
「自重自戒」できないトップには、
この師傅(諫臣)が不在であるといえる。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。