福は徼むべからず|福不可徼|菜根譚|幸も不幸も、自分次第。
第二章 自己を高める
福は徼むべからず
ー福不可徼ー 菜根譚 前集 70項
【菜根譚:明の洪自誠編。前集222条では人との交わり、事治、対応の道を説き、後集135条では退静閑居の楽しみを論じている】
原文:
福不可徼。
養喜神以為召福之本而已。
禍不可避。
去殺機以為遠禍之方而已。
書き下し文:
福は徼むべからず。
喜神を養いて、以って福を召くの本と為さんのみ。
禍は避くべからず。
殺機を去きて禍に遠ざかるの方と為さんのみ。
*喜神:喜ぶ心
意解:
幸福は求めようとしても求められるものではない。
常に前向きな気持ちを持って暮らすこと、これが幸福を呼び込む道である。
不幸は避けようとしても避けられるものではない。
常に人の心を傷つけないように心がけること、これが不幸を避ける方法である。
幸せ(喜神)も不幸(忌神)も、結局は自分で呼び込むのだという。
この処世法は、一見はなはだ消極的であるが、
心を反映した行為の結果と考えるべきだろう。
*身の引き締まる朱子家訓!を添えておきます。
朱子家訓
勿以善小而不為、 | 善が小さきことを以って為さぬことがないようにし、 |
勿以悪小而為之。 | 悪の小さきことをもって為すことがないようにせよ。 |
君之所貴者,仁也。 | 君主の尊ぶところは仁なり。 |
臣之所貴者,忠也。 | 臣下の尊ぶところは忠なり。 |
父之所貴者,慈也。 | 父の尊ぶところは慈なり。 |
子之所貴者,孝也。 | 子の尊ぶところは孝なり。 |
兄之所貴者,友也。 | 兄の尊ぶところは友なり。 |
弟之所貴者,恭也。 | 弟の尊ぶところは恭なり。 |
夫之所貴者,和也。 | 夫の尊ぶところは和なり。 |
婦之所貴者,柔也。 | 妻の尊ぶところは柔なり。 |
事師長貴乎礼也, |
目上の者や師に仕えるには、礼を貴び、 |
交朋友貴乎信也。 |
朋友との交わりは信頼を貴べ。 |
見老者,敬之;見幼者,愛之。 | 老を見れば之を敬い、幼き者を見れば之を愛せ。 |
有徳者,年雖下于我,我必尊之。 | 徳の有る者は、年少者であっても、必ず之を尊べ 。 |
不肖者,年雖高于我,我必遠之。 | 不肖の者は、年長者であっても、必ず之を遠ざけよ。 |
慎勿談人之短,切莫矜己之長。 | 慎んで、人の短所を談じることをなかれ、決して己の長ずるところを誇ることなきように。 |
讐者以義解之,怨者以直報之,随所遇而安之。 | 仇を抱くものは、義をもって之を解くようにし、 怨みを抱くものは、率直さをもって之に報い、 遇うところに随って(状況に応じて)之を安んじよ。 |
人有小過,含容而忍之。 | 人に小さな過ちあれば、容を含んで之を忍ぶべし(寛大な心でこれを許せ) |
人有大過,以理而諭之。 |
人に大きな過ちあれば、理を以って之を諭せ。 |
人有悪,則掩之。 |
人に悪あれば、これを掩え。(庇いなさい) |
人有善,則揚之。 |
人に善あれば、これを揚げよ。(称揚せよ) |
処世无私讐,治家无私法。 |
私怨なくして世に処し、私法なくして家を納めよ 。 |
勿損人而利己,勿妬賢而嫉能。 |
人を損ない、己を利することなかれ。人の賢を妬み、能に嫉することなかれ。 |
勿称忿而報横逆,勿非礼而害物命。 |
私怨を抱き、報復することなかれ。礼を失し、物命を害うことなかれ。 |
見不義之財勿取,遇合理之事則从。 |
不義(不正)の財を見れば、取る事なかれ。理にかなったことであれば、従え。 |
詩書不可不読,礼義不可不知。 |
詩書を読まなければ、礼儀を知ることはできない。 |
子孫不可不教,童僕不可不恤。 |
子孫を教育しなければ、童僕を救い養うことはできない。 |
斯文不可不敬,患難不可不扶。 |
学問を敬わなければ、艱難を扶けることは出来ない。 |
守我之分者,礼也。 |
我の本分を守る者は、礼である。 |
聴我之命者,天也。 |
我の命を聴く者は天である。 |
人能如是,天必相之。 |
人がこの(家訓の)ようにできれば、天は必ず之を知るところとなる。 |
此乃日用常行之道, 若衣服之于身体, |
このことを日々日常の中で実践し、 衣服をまとうように、 |
飲食之于口腹, 不可一日无也, 可不慎哉! | 食事をするように、一日たりとも怠ってはならない。 慎むように! |
*朱子学の概要
朱熹(朱子学の大成者)はそれまでばらばらに学説や書物が出され
矛盾を含んでいた儒教を、 程伊川(儒学者)による性即理説
{性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする}、
仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅(より一歩進めて精神を高めることにつなげる修行法)への批判と、
それと異なる静座(心身を静かに落ち着けること)という行法を持ち込み、
道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。
そこでは自己と社会、自己と宇宙は、
“理”という普遍的原理を通して結ばれ、
理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。
なお朱熹の言う“理”とは、
「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、
まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、
両者は“不離不雑”の関係である」とする。
また、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、
気の運動に秩序を与える」とする。
この理を究明することを「窮理」とよんだ。
朱熹の学風は 「できるだけ多くの知識を仕入れ、
取捨選択して体系化する」というものであり、
極めて理論的であったため、後に
「非実践的」「非独創的」と批判された。
しかし儒教を初めて体系化した功績は大きく、
タイム誌の「2000年の偉人」では
数少ない東洋の偉人の一人として評価されている。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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