すでに明かつ哲、以ってその身を保つ|中庸 第15章|
第四章 着実に生きる
すでに明かつ哲、以ってその身を保つ
ー既明且哲、以保其身ー 中庸 第15章(朱子章句27章)
(中庸:もと「礼記」中の一篇であったが、後に四書の一つに数えられた。孔子の孫の子思の撰と伝えられている。)
{ 原文}
國有道,其言足以興,
國無道,其默足以容。
《詩》曰:“既明且哲,以保其身。”
其此之謂與!
{ 書き下し文}
國に道あれば,其の言以って興こすに足り,
國に道無ければ,其の默以って容らるるに足る。
《詩》に曰く:“既に明にして且つ哲,以って其身を保つ。”と。
其れ此れを謂うか。
{意解}
国に道なきとき、君子はどうする?中庸の第15章(朱子章句27章)は、
「大なるかな、聖人の道」という偉大な聖人の道を讃える言葉で始まる。
この聖人を目指して身を修め、徳を積んだ有徳人が「君子」である。
この君子は何時の時代にも存在する。が、それらの「君子」を
必ずしも必要とされる時代にめぐり会えるとは限らない。
つまり君子は、道を守りそこから離れないように努力したとしても、
国に道がなかったらどうするのか? その方法が、この章に書かれている。
国の政治がまともであれば、君子は立派な発言ができて
高い位置につくことができるが、国の政治がみだれているときは、
君子は深い沈黙の選択が許され、それで災いを免れる。
「詩経」に「道に明らかでいて思慮深い人が、それでわが身を保全する」と
歌われているのは、 それを指したものである。
君子には「深い沈黙が許される」と中庸は書いているわけである。
現代では「保身」という言葉は、 あまりいい意味では使われなくなっている。
「汲汲として保身につとめる」「自分の保身ばかり図っている」等、
避難的ニュアンスで使われることが多い。
しかし、元はこのように、すでに明かつ哲、以ってその身を保つ|中庸 第15章|
「無事これ名馬」と同じようなもので、考えようによっては、
これほど難しいことはないかもしれない。
その難しいことを可能にするのに必要とされるのが「明」と「哲」、
「道に明らかでいて思慮深いこと」である。
ここから「明哲保身」という成語が生まれたわけである。
この二つの条件があれば、どんな乱世でも、
しっかりと「身を保つ」ことができるのかもしれない。
老子 第67章に「敢えて天下の先たらず」とある。
「老子」によれば、この世の中を無事に生きていくためには、
「三宝」則ち三つの宝が必要なのだという。
「人を慈しむからこそ、勇気が湧いてくる。
物事を控え目にするからこそ、行き詰まらない。
人々の先頭に立たないからこそ、逆に指導者として担がれる。
全てのものを包み込む慈母の愛 、それが何ものにも優るであろう」と、
老子は語っている。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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