天下に忌諱多くして、民いよいよ貧し|天下多忌諱、而民彌貧|老子|

第三章 社会を考える

天下に忌諱多くして、民いよいよ貧し
ー天下多忌諱、而民彌貧ー 老子 第五十七章
(老子:二巻八十一章。道家の祖。老耽の撰と伝えられるが、老耽が実在したか否かは明らかではない。人為、虚飾を去って、無為自然であるべきことを説いている。別名「道徳経」)
{原文}
天下多忌諱、
而民彌貧。
民多利器、
國家滋昏。
{書き下し文}
天下に忌諱多くして、
民いよいよ貧し。
民に利器多くして、
國家ますます昏し。
*忌諱:嫌って避けること。禁令。

{意解}
世の中に禁令が多くなると、人民はいよいよ貧しくなる。
人民の間に文明の利器が多く使われるようになると、
国家はいよいよ混乱する。
紀元前の中国の時代から、
「これしちゃいけない、あれしちゃいけない」 と
禁令だらけでは、新たなものに挑戦しようという意欲が失われ、
それが国家の痛手だと言われていたようだ。
アメリカの社会には、この挑戦のエネルギーが みなぎっていて、
寄らば大樹の陰的な考えは軽蔑されている。優秀な人間は起業して、
新たな雇用と将来の事業の先鞭をつける 役割を担っている。
日本社会に、グローバルに優秀な人材が集まらないのは、
規制が多すぎて挑戦する面白みを殺いでいるからかもしれない。
生活が便利になれば、国は豊かになりそうですが、利器に振り回されて、
本来のものを失ってくるという警告です。
情報通信の進歩で、株の暴落や為替変動が一日足らずで世界を廻り、
世界経済が不安定になってくるという現象です。
多量の情報が容易に得やすくなった分、
その情報に踊らされることも多くなる。
また、自動車の台数が増え、道路は渋滞し、
ガソリンの消費も増え、地球環境を汚染する。
たまには、利器を置いて、人間にとって本来的に必要なもの
(無為自然:心のうちの自然なままの純白さ)を問い直すことも
あって欲しいと老子は言っているのかも。
老子 第46章に「禍は足るを知らざるよりも大なるはなし」とある。
足るを知るとは あるがままの現実に常に満足することだという。
眼・耳・鼻・舌・身・意 の六根から欲が生じ、
人間に「欲」は本能的に具わっているもの、
諸悪の根源とは捉えないが、
無欲を善として推奨し、修行や諸活動を通じて
無欲に近づくことを求めており、
自制ではなく欲からの解放を求めている。と云う。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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