
糟糠の妻は堂より下さず
第三章
糟糠の妻は堂より下さず
ー糟糠之妻不下堂ー 後漢書 宗弘伝
(後漢書:百二十巻。本紀十巻、列伝八十巻は、南北朝時代、
南朝宋の氾嘩の撰で、志三十巻は晋の司馬彪の続漢書から取っている。)
{原文}
貧賎之交不可忘、
糟糠之妻不下堂。
{書き下し文}
貧賎の交わり忘るべからず、
糟糠の妻は堂より下さず。

糟糠の妻は堂より下さず
{意解}
貧賤な身のときに知った友を忘れてはならず、
貧乏のときから辛苦を共にしてきた妻は、
成功を収めて富貴の地位に至ったとしても
大切にするべきであるということ。
人としての在り方、清らかさ、誠実さを例えた言葉である。
(糟糠は、酒かすと米ぬかのことで粗末な食物の喩え)
後漢の光武帝に、未亡人の姉・湖陽公主がいた。
この姉は宗弘という重臣に想いを寄せる。
姉思いの光武帝は、ある日宗弘を呼んで、やんわりと打診した。
「下世話にも、富みては交わりを易え、
貴くしては妻を易うというそうだが、どう思うかね」
宗弘、答えて
「貧賤な身のときに知った友を忘れてはならず、粗末なものを食べて
苦労を共にした妻を正妻の座から下ろしてはならない」
とのことでございます」と。
宗弘の意向を確かめた光武帝は、
姉・湖陽公主に因果を含めてあきらめさせたという。
当時としては、特に高い位に就けば、
妻や妾をたくさん持っているのが普通であったが、
皇帝の姉ともなると、当然、妾では失礼なので、
正室にしなければならなくなる。
そうなると今まで連れ添ってきた、 妻を側室にするか
離縁するかしなければならなくなる。
それで、妻想い(?)の宋弘は、
妻の為にこの縁談を断ったのであろう。
「妻の功労あっての今の自分がある」 と言う、
そんな戒めのことわざでもある。
もっとも、今は自分から出て行く女性も増えたように思えるが。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。