第三章
牝鶏の晨するは、これ家の索くるなり
ー牝鶏之晨、惟家之索ー 書経 牧誓
(書経:二十巻。「尚書」のこと。五経の一つ。堯、舜の伝説時代から夏、
殷を経て、周代に至る間の政治に関する記録。初めは単に「書」といったが、
宋代になって「書経」と呼ばれるようになった。)
{原文}
牝鶏無晨。
牝鶏之晨、
惟家之索。
{書き下し文}
牝鶏は晨する無し。
牝鶏の晨するは、
惟家の索くるなり。
{意解}
めんどりがおんどりに先んじて朝の時を告げる意。
女が男に代わって権勢をふるい、災いを招くたとえである。
むかしの中国は典型的な男尊女卑の社会であった。女性は家庭の中に押し込められ、
社会的な存在としてはほとんどゼロに近かった。「いまだ嫁さずしては父に従い、すでに嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う」 である。このことばも、そういう思想の反映にほかならない。 今は中国も昔と違って男女の同権が保証されている。
殷王朝の末期、紂王の無道によって賢者の比干を殺し箕子を捕らるに及んで、武王は兵を興し、紂討伐に出撃する。自らの大義名分を天下に明らかにするための宣言を発した。その中に書経に書かれている一句がある。「牝鶏は晨することなし、牝鶏の晨するは、これ家の索くるなり」簡単に言えば、「カカア天下の家は滅びる」ということである。
すなわち、紂王が妲己への愛に溺れ、妲己の言にひたすら従って、亡国の道に進んだことを指している。 暴君が愛姫にうつつを抜かし、 政治をおろそかにして実権を女性に握られ 亡国に至ったケースを中国史・世界史・日本史で見かけるが、今時、女性は政治に首を突っ込むべきでないなどといったら、必ず多くの抗議が殺到することでしょう。
立派な女性政治家もいるわけですから。
末子相続の伝統が残っていた牧畜狩漁民の殷にとって母親の実権はまだまだ健在であり、女がしっかりしていて家が亡びる訳がない。女性が口出しして国が亡びるのは 吾が子を帝位につかせようとして必死になる母親の性であり、 その確執においては国が亡びもする。
勿論、出典の女性、妲己は 気儘で虚栄心の高い浪費癖・冷酷・淫靡と伝えられている。が
それは男であっても女であっても同じ次元の問題である。生まれは山東半島の東の端、有蘇氏の娘で、何よりも彼女は友好の証しか、 隷属の貢物として差し出された身であり、 彼女が紂王好みの女性であったとしても軍事の口実に挙げるのは言いがかりとしか思えないかも、武王にとって、かつて彼女は父・文王が羑里に囚われ、釈放された時の命の恩人でもありました。
牝鶏之晨とは亀卜鶏索のことかも、占いの巫女を亀卜鶏索の恨みに重ね合わせ、
牝鶏の晨を司すると悔蔑の対称としたとも言える。「牝鶏の晨」はまた、井戸端会議が意外な方向に発展しかねない農耕を生活の基盤とする周の人々の戒めの意味合いであったかもしれない。
通俗編に「家に賢妻あれば丈夫は横事に遭わず」ともある。家に賢妻がいれば、なぜそういう目に会わないで済むのか。まず第一に安心感が大きく作用するのかもしれない。
家に帰って、愚痴や不満ばかり聞かされていたのでは、これまた仕事に立ち向かう姿勢に影響してくるに違いない。 公金横領とか贈収賄事件に巻き込まれたりするのも、家に賢妻がいれば、かなりな程度防げるのではないか。
男を生かすも殺すも女房次第といった面があるのだが、最近は、「賢い妻」という響きをあまり聞かないのは・・・残念である。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
コメント