楽しみは極むべからず | 楽不可極|礼記 曲礼上|

第四章 着実に生きる

楽しみは極むべからず
楽しみは極むべからず

第四章 着実に生きる

 

楽しみはきわむべからず

ー楽不可極ー    礼記 曲礼上(五礼(吉・凶・賓・軍・嘉)の総説)
(礼記:四十四篇。周末秦漢時代の礼に関する理論及び実際を記録編集したもの。前漢の戴聖によって伝えられた。「小戴礼」又は「戴記」といわれる。五経の一つ)

{原文}

敖不可長、
欲不可従。

志不可満、
楽不可極。

{書き下し文}

おごりは長ずべからず、
欲はほしいままにすべからず。

志はたしむべからず、
楽しみはきわむべからず。

楽しみは極むべからず
楽しみは極むべからず


{意解}

すべて物事には「程々ほどほどに」が善いと云っている。

ごう:おごりをつのらせてはいけない。
よく欲望よくぼうおぼれてしまってはいけない。
こころざしは完全にたされることを求めてはいけない。
らく歓楽かんらくは限りを尽くしてはいけない。

ごう」とは、傲慢ごうまんである。
自分の能力や地位を鼻にかけて人を見下すことだ。
まずそういう気持ちがあり、それがおのずから表情や態度に表れる、
これが「おごり」にほかならない。  

これと似たものに、「ほこり」がある。自尊心、プライドだ。
こちらのほうは、人間としてあったほうが良い。
しかし、それがいびつな形をとって発現すると
「敖」になってしまう。 誰でも気を許すと、
むくむくと「敖」が頭をもたげてくる。
そうならないためには、
普段から注意して押さえつけておかなければならない。


よく」についても同じことが言える。
人間に欲望があることによって社会は進歩してきた。
そういう意味では、むしろ積極的に評価されなければならない。
だが、無制限な欲望の追求は、はた迷惑である。
こちらの幸せが相手に不幸をもたらすようでは、幸せも長続きしない。
節度を保たないと、身をあやまることになりかねない。

」、こころざしである。
こころざし達成のために努力することは重要である。だが、
目的を達成してしまうと、
充足感で何に対しても意欲が無くなる場合がある。

常に何かまだ未達成の目標があり、
日々努力するような環境に身を置くことのほうが
望ましいのではないかと。

らく」、一度の人生、楽しむことも必要である。
問題は、その楽しみ方である。

例えばゴルフに行ったとする。誰でも「ああ、いいなぁ」と思い、
できたらゴルフ三昧の生活を一週間でも続けてみたいと願うだろう。だが、
暇を見つけてたまに行くから楽しいのであって、毎日そんなことをしていれば、
楽しみどころか、かえって味気ない思いが募つのるだけかもしれない。
楽しみごとは、のめり込めばかえって苦しみを増す。

「敖、欲、志、楽」いずれにおいても、限度を設け、
とどまることを知ることが大切であるというのである。
人生には楽しみが必要である。長寿に恵まれ真面目に生きてきたお年寄りが、
「私のような生き方は、人様にはお勧めできませんな」と述懐じゅっかいしていた。
人生は短い。 その短い人生にこれといった楽しみがなく、
あくせく働く事だけで終わってしまうようなら、 何のための人生ぞや、だ。

せっかくの人生、 一度の人生、楽しむことも必要である。  

 問題は、その楽しみ方である。  例えばゴルフに行ったとする。
誰でも「ああ、いいなぁ」と思い、 できたらゴルフ三昧の生活を
一週間でも続けてみたいと願うだろう。
だが、暇を見つけてたまに行くから楽しいのであって、
毎日そんなことをしていれば、
楽しみどころか、
かえって味気ない思いがつのるだけかもしれない。
楽しみごとは、のめり込めばかえって苦しみを増す。
「楽しみはきわむべからず」で、 程々が良いようだ。

古文真宝 秋風辞に「歓楽極まって哀情多し」とある。
意のままに何でもできる立場にある武帝ですら、
楽しみの影に忍び寄る「哀情」を如何ともできなかった。
これが人生というものかも知れない。
楽しみに溺れて無駄に時を過ごしてはならないということでもある。

*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。

私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。