第八章 リーダーの心得
己を枉ぐる者にしていまだ能く人を直くする者はあらず
ー枉己者未有能直人者ー 孟子 巻第六藤文公章句下 五十二節
【孟子:七編。戦国中期の儒家孟軻の言行や学説を編集したもの。性善説や王道論は有名。四書の一つ】
原文:
陳代曰、
不見諸侯、宜若小然。
今一見之、大則以王、小則以霸。
且志曰、枉尺而直尋。宜若可為也。
孟子曰、
中略
詩云、不失其馳、舍矢如破。
我不貫與小人乘。請辭。
御者且羞與射者比。
比而得禽獸雖若丘陵、弗為也。
如枉道而從彼何也。且子過矣。
枉己者、未有能直人者也。
書き下し文:
陳代曰く、
「諸侯を見ざるは、宜に小なるが若く然り。
今、一たび之を見ば、大は則ち以て王たらしめ、小は則ち以て霸たらしめん。
且つ志に曰く、『尺を枉げて尋を直くす。』宜に為す可きが若し。」
孟子曰く、
中略
詩に云う、其の馳することを失はざれば、矢を舍ちて破るが如し、と。
我、小人と乘ることを貫はず。請ふ辭せん。」
御者すら射者と比するを羞づ。
比して禽獸を得ること丘陵の若しと雖も、為さざるなり。
道を枉げて彼に從うが如きは何ぞや。且つ子過てり。
己を枉ぐる者にしていまだ能く人を直くする者はあらざるなり。
*陳代:孟子の弟子
*詩:詩経
口語訳:
孟子の弟子の陳代が言った、
「先生が諸侯に面会を求めないのは、どうもお心が狭いように思われます。
もし一度でも先生にお会いになれば、その諸侯は大きくは天下の王に、
そこまでいかなくても覇業をなしとげることぐらいはできるでしょう。
それに昔の書物にも、『わずか一尺を曲げて八尺を真直ぐにする。』
乃ち小をすてて、大を活かせ、とありますが、先生もそうなさるのが
よろしいかと存じます。」と。
孟子曰く、
中略
『詩経』にも、法に違わずに車を御せば、放つ矢も弓勢鋭く必ず中る、とあります。
私は法に従って車を走らせて、一羽も取れないような小人と一緒に乗ることに
慣れていませんので、お断りします。」と言ったそうだ。
御者ですら未熟な射手におもねることを恥とした。おもねることにより、
獲物が山のように取れたとしても、そういうことはしないものだ。
それなのに私に道を曲げてまで諸侯に從えと進めるとは、なんということだ。
ましてお前は間違っているぞ。
自分を曲げた者が、どうして他人を直くすることなど出来ようか。
*おもねる:きげんをとってその人の気に入るようにする
*参考資料:『孟子』巻第六藤文公章句下 五十二節
意解:
「己を枉ぐる」とは、自分の原則を曲げて相手に迎合すること、
そういう人間が指導的立場に立ったのでは相手を正しい方向に導くことができない。
というのである。
孟子という人は、仁義に立脚する王道政治を主張し、
なんとかそれを実現しようと、各国の王に働きかけてまわった。
だが、各国とも現実の利益追求に余念がなく、
孟子の理想は容易に聞き入れられない。
それを見た弟子の一人が、もう少し融通をきかせて
相手と妥協したほうがよいのではないかと言ったところ、
孟子はこの言葉を引いて、逆に、弟子をたしなめたという。
たしかに孟子の語るように、指導的立場にある者には、
自分が正しいと信じた原則は
あくまでも顕示するという毅然としたしせいがあるべきだ。
とくに、教育の場にある者にはこれが望まれる。
だが、現実の場においては、これと同時に、
柔軟な融通性を併せ持ったほうが善いのかもしれない。
宋史 巻365 岳飛傳に「運用の妙は一心に存す」とある。
「陣して後戦うは兵法の常なり。運用の妙は一心に存す」
兵法の定石はもちろん必要だが、それよりも肝心なのはむしろ
臨機応変な運用だという意味である。
これは現代の企業経営の管理職にも、そっくり当てはまるかもしれない。
一つ一つの選択(決断)が後の企業の存続を左右する事を、
肝に命じて決断(選択)をしてほしいものである。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。