瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず|文選 古楽府 君子行|

第四章 着実に生きる
瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず
ー瓜田不納履、李下不整冠ー 文選 古楽府 君子行
(文選|もんぜん:三十巻。南朝梁の昭明太子の撰。周から南北朝時代の梁にいたる約千年間、百三十余名の詩賦文章のほか、作者不明の古詩や古楽府を若干収録。)
{原文}
君子防未然、
不處嫌疑間。
瓜田不納履、
李下不正冠。
{書き下し文}
君子は未然に防ぎ、
嫌疑の間に処らず。
瓜田に履を納れず、
李下に冠を正さず。

{意解}
君子たるものは、人から疑いを招くような事は未然に防ぎ、
嫌疑をかけられるような振る舞いはしないものだ。
(取ろうとしていると勘違いされぬように)
瓜畑の中で靴を穿くような仕草をしたり、
李の木の下で冠をかぶりなおしたりはしないものだ。
「疑わしきは罰せず」は法律の世界だが、個人のモラルとしては、
「疑わしきは為さず」ぐらいの心構えが必要なのかもしれない。
それを語っているのが、この言葉である。
「瓜畑では靴を履き替えてはならない。
李の木の下では、手を挙げて冠を直してはならない」というのだ。
なぜなら、そんなことをすれば、
瓜や李を盗み取ろうとしたのではないかと疑われるからである。
誰しも、人から疑われるのは気持ちのよいことではない。
なかには、濡れ衣を着せられて、 腹立たしい思いをした人も、
多くいるに違いない。
だが、人から疑われる原因を、自ら作っているようなケースもあるように思う。
たとえば、不注意な言動とかふしだらな行為などは、人の疑いを招きやすい。
それを避けるためには、普段から厳しく自分を律する必要がある。
人から疑われて得になることは、一つもないのである。
列子 鬳斎口義 説符篇に「疑心、暗鬼を生ず」とある。
疑わしき目で見れば、すべてのことが疑わしく思われてくるのだという。
「列子」に、紹介された話である。 自分の思い込みで、
罪のない者まで疑わしく見えたという話だある。
これに類する話は、誰にでもあるだろう。
誤った偏見や先入観によって判断を惑わされるのである。
自分の判断力でも、無条件の信頼など置かない方が良いのかもしれない。
* 文選
中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集。
春秋戦国時代から梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、
37のジャンルに分類して収録。 中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。
収録作品のみならず、 昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として
高く評価されている。
序文には、作品の収録基準を
「事出於沈思、義帰乎翰藻(事は沈思より出で、義は翰藻に帰す)」とし、
深い思考から出てきた内容を、
すぐれた修辞で表現したと見なされた作品を収録したとある。
*翰藻:詩歌や文章。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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