十の語九中るも、未だ必ずしも奇と称せず|菜根譚 前集 71項|

第八章 リーダーの心得
十の語九中るも、未だ必ずしも奇と称せず
ー十語九中、未必称奇ー 菜根譚 前集 71項
【菜根譚:明の洪自誠編。前集222条では人との交わり、事治、対応の道を説き、後集135条では退静閑居の楽しみを論じている】
原文:
十語九中、未必称奇。
一語不中則愆尤駢集。
十謀九成、未必帰功。
一謀不成則貲議叢興。
君子所以寧黙毋躁、寧拙毋巧。
書き下し文:
十の語九中るも、未だ必ずしも奇と称せず。
一語中らざれば、則ち愆尤駢び集まる。
十の謀九成るも、未だ必ずしも功を帰せず。
一謀成らざれば貲議叢り興る。
君子は寧ろ黙して躁なることなく、寧ろ拙にして巧なることなき所以なり。

意解:
言っている事の九割が正しいからと言って、必ずしも優れた人間とは言えず、
誤った一割の不備に非難が集まることがある。
戦略の九割が達成できたからと言って、必ずしも大きな功績があるとは言えず、
一割の未達に誹謗中傷が集まる。
これが、君子が多弁よりも沈黙を選び、利口ぶるよりも
無能をよそおうのは、そのためである。
多弁なるが故に失敗した例は数え上げるときりが無い。
「老子」には、「多言なれば、しばしば窮す」(老子 五章)とあり、
「莊子」にも、「大弁は言わず」とある。
「孔子」も、「君子は弁舌が爽やかであるよりも、実践において勇敢でありたい」
(論語)
と多弁の愚を戒めている。
老子 45章に「大弁は訥なるが如し」ともある。
ことごとく逆説的表現であるが、それでいてある真実を的確に捉えている。
それは、「大弁は訥なるが如し」の一句を取り上げてみても明らかである。
真の雄弁は訥弁と変わりがない、雄弁より訥弁、
訥弁よりも無言の説得を良しとする考え方にほかならない。
ここで「老子」の言わんとしていることは、喋り過ぎの害である。
しゃべり過ぎは”百害あって一利なし”だ。
参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)を参考に
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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