衆曲は直を容れず、衆枉は正を入れず|淮南子 説山訓 15|
第一章 大きく生きる
衆曲は直を容れず、衆枉は正を入れず
ー衆曲不容直、衆枉不容正ー 淮南子 説山訓 15
(淮南子:二十一巻。前漢の淮南王劉安(漢の高祖の孫)が幕下の学者に命じておのおのの専門について講論させて作った書。)
{原文}
衆曲不容直、
衆枉不容正。
故人眾則食狼,
故狼眾則食人。
{書き下し文}
衆曲は直を容れず、
衆枉は正を入れず。
故に人衆ければ則ち狼を食らう、
狼衆ければ則ち人を食らう。
{意解}
「衆曲」とは、全体が曲がっていること
「衆枉」は、全体が間違っていること。
例えば、組織全体が曲がっていたり、
間違った方向に進んでいる状況下では、
数人が真っ直ぐであろうとしたり、
正しいことを主張したりしても、
全体的に、悪(曲)が正(直)として
まかり通ってしまうということである。
そうゆう中で、生きるとすれば
考えられる選択肢が三つある。
一、 あくまでも「直」に生き「正」を主張して、組織の歪を正す。
ただし、相応の覚悟が必要だろう。
一、 大きな流れに逆らわないで、 それなりに大勢に順応して生きる。
一、 そんな組織に見切りをつけ、他に活きる道を求める。
の三つであろう。
どれを選択するかは、 それぞれの立場、状況、人生観によって 異なってくるだろう。
人生、長く生きていれば、往々にして これに近い選択を迫られる時があるだろう。
どの道を選択したとしても、 後々、後悔のない選択をしたいものである。
史記 蘇秦伝に「むしろ鶏口となるも牛後となるなかれ」 という一文もある。
大企業のなかで鳴かず飛ばずの一生を送るよりも、中小企業でもいいから、
そのトップになって存分に腕をふるったほうがよいという意味。
この選択が、
これからの人生を大きく左右する 決断になるかもしれない。
参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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