善く問いを待つ者は鐘を撞くが如し|善待問者如撞鐘|礼記|
第三章 社会を考える
善く問いを待つ者は鐘を撞くが如し
ー善待問者如撞鐘ー 礼記
(礼記:四十四篇。周末秦漢時代の礼に関する理論及び実際を記録編集したもの。前漢の戴聖によって伝えられた。「小戴礼」又は「戴記」といわれる。五経の一つ)
{原文}
善待問者如撞鐘、
叩之以小者則小鳴、
叩之以大者則大鳴。
待其従容、然後尽其声。
不善答問者反此。
{書き下し文}
善く問いを待つ者は鐘を撞くが如く、
これを叩くに小を以てする者は小鳴し、
これを叩くに大を以てする者は大鳴す。
その従容を待ちて、然る後にその声を尽くす。
問に答うるに不善なる者はこれに反す。
{意解}
「善く問を待つ者」とは立派な教師という意味。
よく質問に対応してくれる人(教育者)は、 鐘を撞くようなものである。
小さく叩けば小さく鳴るし、大きく叩けば大きく鳴る。
教えを請うものが、くだらない質問をすれば、つまらない答えしか返ってこない。
細部に関する質問には必要な回答をしてくれるし、
本質についての質問には本質を答えてくれるものだ。
教育というものは、教育者が一方的に教えるだけではない。
教わる者が積極的に参加してこそ、教育は成り立つ。
結局、教えを受ける側の能力・意識の問題なのである。 もちろん、
鐘である教師自体が「鳴らない鐘」であれば、全く意味がないのだが。
礼記では教師と生徒の関係を表しているが、別に教育に限った話ではない。
人間関係すべてに当てはまることだと思われる。
論語 三巻 公冶長第五に「一を聞いて以って十を知る」がある。
一を聞いて己に落とし込み二へと高めるのも教えを受ける側次第なのだろう。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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