富は足ることを知るに在り|富在知足|説苑|(吾唯足知)
第四章 着実に生きる
富は足ることを知るに在り
ー富在知足ー 説苑
(説苑:二十巻。前漢の劉向の撰。前賢先哲の逸話集。)
{原文}
富在知足、
貴在求退。
{書き下し文}
富は足ることを知るに在り、
貴は退くを求むるに在り。
{意解}
本当の豊かさは、もう十分だと認識するところにあり。
本当の貴さとは、一歩退いて謙虚であろうとするところにこそある。
どんなにお金を貯め資産を増やしたところで、
これで十分だということはないらしい。できれば、もっと増やしたいと、
誰もが願っている。故に、増やすことによっては本人の満足感は得られない。
そういう意味で、「富」というのは、本人が満足(知足)したところにあるという指摘は、
十分な説得力を持っている。
「韓非子」に、こんな話が載っている。あるとき、斉国の王桓公が
宰相の管仲に向かって、「富には限界があるものだろうか」と尋ねたところ、
こんな返事が返ってきたという。
「水の限界は水のなくなるところ、富の限界は、それに満足するところにあります。
しかし、人間は満足することを知らず、遂に身を滅ぼしてしまいます。あるいは、
これが限界なのかもしれません。」と。
「富」を追求するのもいいが、それによって身を滅ぼすような
愚かさだけは避けたいものである。
老子 第46章に「禍は足るを知らざるよりも大なるはなし」とあり、
人間の欲望は必ずエスカレートする。 欲望の赴くところは際限を知らない。
そんな欲望に引きずられて突っ走れば、 いずれは必ず足を踏み外す。
これが「老子」の認識であり、中国人の認識であった。
足ることを知る「知足」は すべての物事に溢れている現代においては
特に心に戒めておく言葉に思う。(吾唯足知)
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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