富は足ることを知るに在り|富在知足|説苑|(吾唯足知)

第四章 着実に生きる

富は足ることを知るに在り50,96
富は足ることを知るに在り50,96

第四章 着実に生きる

 

とみることをるに

ー富在知足ー     説苑
説苑ぜいえん:二十巻。前漢の劉向の撰。前賢先哲の逸話集。)




{原文}


富在知足、
貴在求退。




{書き下し文}

とみることをるにり、
退しりぞくをもとむるにり。

富は足ることを知るに在り50,96
富は足ることを知るに在り50,96




{意解}

本当の豊かさは、もう十分だと認識にんしきするところにあり。
本当のとうとさとは、一歩退しりぞいて謙虚けんきょであろうとするところにこそある。

 どんなにお金を貯め資産を増やしたところで、
これで十分だということはないらしい。できれば、もっと増やしたいと、
誰もが願っている。故に、増やすことによっては本人の満足感は得られない。
そういう意味で、「とみ」というのは、本人が満足(知足)したところにあるという指摘してきは、
十分な説得力を持っている。

韓非子かんぴし」に、こんな話がっている。あるとき、斉国の王桓公かんこう
宰相さいしょう管仲かんちゅうに向かって、「富には限界があるものだろうか」と尋ねたところ、
こんな返事が返ってきたという。
「水の限界は水のなくなるところ、富の限界は、それに満足するところにあります。
しかし、人間は満足することを知らず、ついに身を滅ぼしてしまいます。あるいは、
これが限界なのかもしれません。」と。
「富」を追求するのもいいが、それによって身を滅ぼすような
おろかさだけはけたいものである。

老子 第46章に「禍は足るを知らざるよりも大なるはなし」とあり、
人間の欲望は必ずエスカレートする。 欲望の赴くところは際限を知らない。
そんな欲望に引きずられて突っ走れば、 いずれは必ず足を踏み外す。
これが「老子」の認識であり、中国人の認識であった。
ることをる「知足ちそく」は すべての物事にあふれている現代においては
特に心にいましめておく言葉に思う。(吾唯足知)

*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。

私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。