人はその親愛する所に之いて辟す|人之其所親愛而辟焉|大学 伝8章
第八章 リーダーの心得
人はその親愛する所に之いて辟す
ー人之其所親愛而辟焉ー 大学 伝8章 修身
【大学:一巻。もと「礼記」中の一篇であったが、宋代以降、単行本として独立し、朱熹がこれを四書の一としたことから、特に広く読まれるようになった】
原文:
所謂齊其家在脩其身者、
人之其所親愛而辟焉。
之其所賤惡而辟焉。之其所畏敬而辟焉。
之其所哀矜而辟焉。之其所敖惰而辟焉。
故好而知其惡、惡而知其美者、天下鮮矣。
故諺有之曰、人莫知其子之惡、
莫知其苗之碩。
此謂身不脩、不可以齊其家。
右傳之八章、釋脩身齊家。
書き下し文:
所謂その家を斉うるはその身を修むるにありとは、
人はその親愛する所に之いて辟す。
その賤悪する所に之いて辟す。その畏敬する所に之いて辟す。
その哀矜する所に之いて辟す。その敖惰する所に之いて辟す。
故に好みてしかもその悪を知り、悪みてその美を知る者は天下に鮮し。
故に諺にこれ有り、曰く、人はその子の悪を知るなく、
その苗の碩いなるを知る莫しと。
これを身修まらざれば、もってその家を斉うべからずという。
右は伝の八章、身を修め家を斉うることを釈す。
意解:
所謂その家を⻫える(和合)ということは
その⾝を修めることだとは、どういうことなのか?
⼈は家族や親族に対しては、その愛情に溺れて偏った判断をする。
⼈は⾝分の低い者にたいしては、賤しみ蔑みの感情にとらわれて偏った判断をする。
⼈は⾝分の⾼い者に対しては畏敬の念に惑わされて偏った判断をする。
⼈は困窮している者に対しては憐憫の情にほだされて偏った判断をする。
⼈は疎遠の者に対しては無視して偏った判断をする。
したがって、好ましい⼈にも⽋点があり、
嫌いな⼈にも美点があることを知る⼈は少ない。
諺 にも⾔う、「親ばかはわが⼦の悪を知らず。欲張りはわが家の苗の価値に気づかず」と。
このように、わが⾝が修まらなければ家を⻫えることはできないのである。
以上は、伝8章 修 ⾝ 斎 家についての解説である。
*参考:宇野哲⼈訓で読む⼤学33:伝8章 修⾝
「辟す」とは、偏ること。公平な判断ができなくなって、
⽚⼿落ちの態度をとることである。恋⼈に対して
「あばたもえくぼ」に⾒えてきたり、
⺟親が「我が⼦に限って・・・」と思ったりするのは、
愛するあまり、的確な判断ができなくなるためであり、
「親愛する所に之いて辟す」の典型であろう。
「⼤学」はまた、「好みてその悪を知るものは天下に鮮し」とも語っている。
愛しているうちは、相⼿の⽋点が⾒えてこない。
かりに⾒えてきても⽬をつぶろうとする。
どうしても判断が⽢くなってしまうのだ。
あばたがえくぼに⾒えたところで、個⼈の場合は、
ご愛嬌ですますことができるかもしれない。問題なのは、
⼈の上に⽴つリーダーがこれをやったのでは、
そのマイナスな⾯は一層深刻である。
リーダーたる者、⼈を親愛するのはいいが、
其の結果としてのえこひいきは
極⼒、抑制しなければならない。
宋名臣言行録にも
「恩もし己より出でなば、怨みははた誰にか帰せん」とある。
人に恩を着せるのはいいが、では左遷される者の怨みは
誰が引き受けてくれるのか、といった意味であろう。
抜擢されて喜ぶ者が出れば、左遷、降格されて悲しむ者も出る。
そこに私情がからめば、怨みの気持ちも生じてくる。
この王曾のやり方も一つの「仁」であるかもしれない。が
私情を挟まない、能力に見合った人材登用は必要である。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
⾃分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、⽇々、何をするにしても
⼤なり⼩なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴⽅も私も 在りたいですね。