第一章
呑舟の魚は枝流に游がず
ー呑舟之魚不游支流ー 列子 楊朱
【列子:八巻。戦国初期の鄭のひと列御冠の撰とされているが、
偽作説もあり。別名「沖虚真経」 】
これは「列子|楊朱」の一文である。
『列子』は、春秋戦国時代の鄭の人、
列御寇の著書とされる道家の文献を指す。
別名を『冲虚至徳真経』ともいう。
『天瑞』、『黄帝』、『周穆王』、『仲尼』、
『湯問』、『力命』、『楊朱』、『説符』の8巻、
多くの寓言により、道家的思想を伝える。
{原文}
呑舟之魚,不游枝流,
鴻鵠高飛,不集汚池。
何則其極遠也。
{書き下し文}
呑舟の魚は枝流に游がず、
鴻鵠は高く飛びて汚池に集わず。
何となればすなわちその極めて遠ければなり。
*汚池:汚い池
{意解}
「呑舟の魚」とは、舟をひと呑みにするような魚である。
そういう大きな魚は、川の支流には泳がないのだという。
鴻鵠(おおとり、くぐい)は高く飛んで,汚れた池には集まらない。
なぜならば、その目指す所が極めて遠いところだからである。
この言葉には、次のような含意があるようです。
・大きな目標を持つこと
・小事にこだわらないこと
この二つです。
人生の目標は大きいほどよい。
初めから小さい目標を立ててかかると、
それだけの結果に甘んじてしまう。
その点、大きな目標を立ててかかると、
かりに半分しか実現しなかったとしても、
かなりな線まで到達することができよう。
目標を立てたら、次は、
それを実現するためには小事にこだわりすぎないことだ。
「枝流」のような枝道にまぎれこまないように、
いつも、しっかりと目標に向かって歩くことである。
ゆっくりでもかまわない。しかし、
つねに大きな目標から目をそらしてはならない。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。