後生畏るべし|後生可畏|論語 子罕 第九 23|
第二章 自己を高める
後生畏るべし
ー後生可畏ー 論語 子罕 第九 23
{論語:十巻二十編。孔子や孔子の門弟の言行を記したもの。
儒家の聖典とされている。四書の一つ。}
{原文}
子曰、
後生可畏。
焉知來者之不如今也。
四十五十而無聞焉、
斯亦不足畏也已矣。
{書き下し文}
子曰く、
後生畏るべし。
焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。
四十五十にして聞ゆること無くんば、
斯れ亦畏るるに足らざるのみ。
{意解}
若者の持つ、 将来性、可能性を述べたものだ。
三日会わずば刮目して見よ。
人というのは思わぬきっかけで奮起努力し、
短期間で見違えるように変わる事がある。
人の進歩は、 はかることができない
「後生畏るべし」若いからといって
見くびってはいけない、彼等の将来が
われわれの現在に及ばないと誰がいい得よう。
という戒めでもある。
孔子は続けて
四十五十而無聞焉、
斯亦不足畏也已矣。
「四十五十にして聞こゆること無くんば、
斯れ亦畏るるに足らざるのみ」 (現在では五十六十位)と。
「聞こゆる」は、社会人として、ちゃんとした役割を果たしている。の意味。
「無ければ」そのときは、畏るるに足らずである。
人は何歳になっても自分を変える事ができる。若者に負けず、
若かりし頃の直向きさ、バイタリティを思い出し
努力を惜しまず、生きたいものである。
古文真宝に「謂うこと勿れ、今日学ばずして来日ありと」とある。
「今日やらなくても明日があるさ」という 怠りの心を戒めた言葉である。
学ぶことに遅すぎるという事はない。
「勉強」は学生時代だけの専売特許ではない。
仕事に、雑事にかまけていたのでは、いつまでたっても、とりかかれない。
思い立ったが吉日である。ゆっくりでもいい、
階段を上り続けることが必要だろう。階下も観えてくるはずだ。
参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。