知る者は言わず、言う者は知らず|知者弗言、言者弗知|老子 玄徳|
第二章 自己を高める
知る者は言わず、言う者は知らず
ー知者弗言、言者弗知ー 老子 玄徳 第五十六
(老子:二巻八十一章。道家の祖。老耽の撰と伝えられるが、老耽が実在したか否かは明らかではない。人為、虚飾を去って、無為自然であるべきことを説いている。別名「道徳経」)
{原文}
知者不言、言者不知。
塞其兌、閉其門、
挫其鋭、解其紛、
和其光、同其塵。
是謂玄同。
故不可得而親、不可得而疏。
不可得而利、不可得而害。
不可得而貴、不可得而賤。
故爲天下貴。
{書き下し文}
知る者は言わず、言う者は知らず。
その兌を塞ぎて、その門を閉し、
その鋭を挫いて、その紛を解き、
その光を和げて、その塵に同じくす。
これを玄同と謂う。
故に得て親しむべからず、得て疏んずべからず。
得て利すべからず、得て害すべからず。
得て貴ぶべからず、得て賤しむべからず。
故に天下の貴きとなる。
{意解}
訳せば、 「道を体得した人物は、知識をひけらかさない。
知識をひけらかすような人物は、道を体得しているとはいえない。」 となる。
本当に理解している人はそれらについて話さない。
べらべらと語りたがる者はまだ理解が足りないのだ。
本当に道理が解っている人間は耳目や口を塞いで
余計な知識の出入り口を閉ざし、
鋭敏な感覚を鈍くして意識のもつれを解きほぐし、
自らの輝きを和らげて何でもない塵と一つになる。
これを神秘なる同一と言う。
この同一を得た人は、近づいて親しむ事もできず、
遠ざけて疎遠にする事もできない。
利益を与える事もできなければ、損害を与える事もできない。
敬って尊ぶ事もできなければ、卑しんで侮る事もできない。
そうしてこの世で最も貴い存在(理想的な存在)となっている。
たしかに、得意げに語る姿は観ていて愁いを感じる。
ソクラテスの言葉に
「私が知っているのは、私が何も知らないということだけだ」
すぐに知ったつもりになってしまう自分への、警鐘だろう。
宋名臣言行録 前集巻七に「韜晦して圭角を露すなかれ」ともある。
「韜晦」は、隠して外に現さないこと。
「圭角」は、この場合は、才能を指している。
下手に才能をひけらかせば、上司に嫌われるばかりか、
無用の禍を招くのがオチであろう。
組織社会で生きている者には、今も昔も、
このような用心深い配慮が必要なのかもしてない。
この忠告を、必ずしも老婆心と笑うことはできないのである。
備考:
老子は万物の根源に「道」の存在を認め、
その「道」のもっている無為自然の徳を賞揚した思想家である。
この「老子」の原文は「和光同塵」の成句で知られ、
『摩訶止觀』に 「和光同塵結縁之始、八相成道以論其終。」
(和光同塵は結縁の始め、八相成道はもってその終りを論ず。)と、
仏・菩薩が衆生済度のためにその本地の知徳を隠し、
煩悩の塵に同じて衆生に縁を結ぶことの意に用いられている。
*八相成道:釈迦八相ともいう。
(1) 兜率天 から下る下天 ,
(2) 母マーヤー (→摩耶夫人 ) の胎内に宿る託胎 ,
(3) 母の右脇から誕生したとする降誕 ,
(4) 法を求めて家庭生活を離れる出家 ,
(5) 悟りのための種々の障害を破る降魔 ,
(6) 悟りを得ることである成道 ,
(7) 鹿野苑における最初の説法である転法輪 ,
(8) クシナーラーで大往生をとげる入涅槃 ,をいう。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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