天道是か非か|天道是邪非邪|史記 伯夷列伝|

第三章 社会を考える

天道是か非か

第三章 社会を考える

 

天道

ー天道是邪非邪ー   史記 伯夷列伝
(史記:百三十巻。前漢の司馬遷が撰した、中国最初の通史です。
上古の黄帝から、漢の武帝までの歴史を紀伝体で記しています。)

中国人は昔から「天道」(天の摂理)の存在を信じ、
「天道はしんなし、常に善人にくみす」
天道は公平無私であって常に善人に味方すると、
自分の心に言い聞かせてきている。
これに重大な疑問を書で投げかけたのが司馬遷しばせんである。
「天道は、はたして存在するのか」、
「史記」の作者、司馬遷が 「伯夷列伝はくいれつでん」の末尾にしるしたことばである。


{書き下し文}

 
あるひとはく、「天道に親 無し。常に善人に与す」と。
伯夷はくい叔斉しゅくせいごときは善人とふべき者か非か。
仁を積み行ひのきよきことくのごとくにして餓死せり。
且つ七十子の徒、仲尼ちゅうじは独り顏淵がんえん(顔回)を薦めて学を好むと為す。
然るに回(顔回)やしばしば 空しく、糟糠そうこうすらかずして、
つひ蚤夭そうようせり。
天の善人に報施ほうせすること、何如いかんぞや。 
盜蹠たうせきは日に不辜ふこを殺し、人の肉をかんにし、
暴戻恣雎ぼうれいしき、党をあつむること数千人、
天下に横行するも、つひ寿じゅもって終はる。 
是れ何の徳にしたが ふや。
此れそのゆうも大いに彰明較著しょうめいこうちょなる者なり。  
近世に至り、操行不軌そうこうふき
もっぱ忌諱きいを犯すも、 終身逸楽富厚しゅうしんいつらくふこうに、
累世るいせ絶えず、 は地をえらびてこれをみ、
時ありて然る後に言を出し、 行くにみちらず、
公正にあらずんばいきどおりを発せざるも、 憤に遇ふが若き者は、
数ふるに勝ふべからざるなり。余はなはまどへり。
あるいは所謂いはゆる天道是か、非か。

*参考資料:高等学校古文/歴史書/史記/伯夷列伝

天道是邪非邪