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病、膏肓に入る|中国古典 名言に学ぶ

病、膏肓に入る50,96

病、膏肓に入る50,96

第四章

やまい膏肓こうこう

ー疾、在肓之上、膏之下ー    春秋左氏伝 成公十年
(左伝:三十巻。「春秋左氏伝」の略。魯の左丘明の撰と伝えられている。
「春秋」の注釈書で「左氏伝」ともいう。十三経の一つ。)

{原文}
公疾病。求醫于秦。
秦伯使醫緩爲之。
未至。公夢。
疾爲二竪子曰、彼良醫也。
懼傷我。焉逃之。
其一曰、 居肓之上、
膏之下、若我何。
醫至。曰、疾不可爲也。
在肓之上、膏之下。
攻之不可。達之不及。
藥不至焉。不可爲也。
公曰、良醫也。
厚爲之禮而歸之。

{書き下し文}
こう疾病しっぺいなり。しんもとむ。
秦伯しんぱくかんをしてこれさしむ。
いまいたらず。こうゆめみる。
やまい竪子じゅしりて曰く、彼は良医りょういなり。
おそらくはわれを傷つけん。いずくにか之をのがれん、と。
いち曰く、こうの上、
こうの下にらば、
われ若何いかんせん、と。
いたる。曰く、やまいおさからず。
こうの上、こうの下にり。
これむるもならず。これたっせんとするもおよばず。
くすりいたらず。おさからず。
公曰く、良医なり、と。
あつく之がれいして之をかえす。

備考:
{「膏」は心臓の下部、「肓」は隔膜の上部}
1 からだの奥深いところ。

ここに病気が入ると治らないという。
2 漢方の経穴けいけつの一。

背中の第4胸椎下から、大人で約6センチの所。

病、膏肓に入る50,96

病、膏肓に入る50,96

{意解}
 

むかし、晋の景公が重い病に倒れた時のことである。隣国の秦から高緩こうかんという名医を呼んで診察を仰ぐことにした。その前の晩、景公は夢を見た。

病が二人の童子どうじの姿を借りて、こんな話をしているのである。「秦から高緩こうかんがやってくるそうだ。いよいよ俺たちも危ないな。一体どこへ逃げたらよいのか」こう(横隔膜)の上、こう(心臓の下の薄い膜)の下なら安全だ。あそこへ逃げ込もう」  

 さて、翌日高緩こうかんがやってきて、さっそく診察にかかった。そしておわると 「誠に申し上げにくいのですが、病は肓の上、膏の下に入り込んでおります。ここははりも薬も届かぬところ、もはや治療のしようがございません」と語った。景公は間もなく死んだという。  

病気だけではない。どんな仕事でも、 やまい膏肓こうこうらぬうちに、早めに手を打つ(早期処置)ことを心がけなければならない。「如何いかなる難事も容易よういなことから生じ、如何いかなる大事も些細ささいなことから始まる」些細なことだとつい油断して対策をおこたれば、やがてそれが大事件となって、取り返しのつかない事態を招く、と云っている。

韓非子 喻老にも「千丈の堤も螻蟻の穴を以って潰ゆ」とある。「韓非子」は、医者の治療にたとえて、「良医というのは初期のうちに病気を発見して治してしまう。これは病気だけではなく、全ての事にあてはまる。ゆえに、聖人は、物事を処理する際、早め早めに手を打つのである」と云う。


備考:
春秋左氏伝 『春秋左氏伝』は、孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、 紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。通称『左伝』、『春秋左伝』、『左氏伝』ともいうことがある。現存する他の注釈書として『春秋公羊伝』、
『春秋穀梁伝』とあわせて春秋三伝と呼ばれている。

*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。

私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。

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