知の難きに非ず、知に処するは則ち難し|韓非子 説難第一二|

第四章 着実に生きる

知の難きに非ず、知に処するは則ち難し50,96
知の難きに非ず、知に処するは則ち難し50,96

第四章 着実に生きる

 

かたきにあらず、しょするはすなわかた

ー非知之難也、処知則難也ー     韓非子 説難第一二
(韓非子:二十巻五十五編。戦国時代の韓非の選。先秦時代の法家の学を集大成し、それに韓非の考えを加えたもの。はじめは「韓子」と称したが、宋以降、唐の韓愈と区別するため、「非」の字を加えた。)




{原文}

宋有富人。天雨牆壊。
其子曰、
「不築、必将有盗。」
其隣人之父亦云。
暮而果大亡其財。
其家甚智其子、而疑隣人之父。
此二人者、説皆当矣。
厚者為戮、薄者見疑。
則非知之難也、処知則難也。




{書き下し文}

宋に富人あり。天雨ふりかきこわる。
其の子曰はく、
「築かざれば、必ずまさとうらんとす。」と。
其の隣人の父もまたふ。
暮れてして大いに其の財をうしなふ。
其の家はなはだ其の子をとし、しかるに隣人の父を疑ふ。
此の二人は、せつは皆当たる。
厚き者はりくされ、薄き者は疑はる。
すなわかたきにあらず、しょするはすなわかたきなり。

知の難きに非ず、知に処するは則ち難し50,96
知の難きに非ず、知に処するは則ち難し50,96




{意解}
 知ることは難しくない、知ったあとでどう対処するかが難しいのだという。
情報収集よりも情報管理(情報処理)のほうが難しいということである。

例として「韓非子 説難第一二」を揚げている。

 宋の国に金持ちの家があった。
ある日、大雨で塀が壊れたのを見て、息子が語った。
「塀を修理しないと、必ず泥棒に入られてしまう」
隣家の主人も同じことを言ってきた。
その晩に、やはり、泥棒にはいられて、
ごっそり盗まれてしまった。

金持ちは、息子の賢さに感心したが、
同じことを言った隣家の主人に対しては、

「あの男が、犯人ではないか」と、疑った。

 親切に教えてやったのに、あらぬ疑いまでかけられるとは、
これほど割に合わない話はない。私たちの周りにも、
結構これに類する話が転がっている。「韓非子」によれば、
それはみな「知に処する」道を誤ったことに起因するのだという。
あらぬ誤解を招かぬためにも、言葉には気をつけたいものである。

列子 鬳斎口義 説符篇に「疑心、暗鬼を生ず」とある。
疑わしき目で見れば、すべてのことが疑わしく思われてくるのだという。
自分の思い込みで、 罪のない者まで疑わしく見えたという話である。
これに類する話は、誰にでもあるだろう。
誤った偏見へんけん先入観せんにゅうかんによって判断をまどわされるのである。
自分の判断力でも、無条件の信頼など置かない方が良いのかもしれない。

文選 古楽府 君子行には「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」とある。
人から疑われる原因を、自ら作っているようなケースもあるように思う。
たとえば、不注意な言動とかふしだらな行為などは、人の疑いを招きやすい。
それをけるためには、普段から厳しく自分をりっする必要がある。
人から疑われてとくになることは、一つもないのである。

*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。

私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。