時に安んじて順に処れば、哀楽入る能わず|荘子 養生主篇第三の六|
第一章 大きく生きる
時に安んじて順に処れば、哀楽入る能わず
ー安時而処順、哀楽不能入也ー 荘子 養生主篇第三の六
{荘子:三十三編。戦国中期の道家荘周とその一門の思想を記したもの。荘周の選。外編・内編・雑編からなり、内編七編以外の大部分は、後人の仮託になるものといわれている。「南華新経」ともいう。}
{原文}
安時而処順、
哀楽不能入也。
古者謂是帝之縣解。
{書き下し文}
時に安んじて順ことに処げば、
哀楽入る能わざるなり。
古は是れを帝の縣解と謂えり。
{意解}
流れに逆らわない、 自然な生き方を擁護する考え方である。
時のめぐり合わせに身をまかせ、自然の流れに従って生きるなら、
悲しみにも喜びにも心をかき乱されることはない、
昔はこのような境地に立ち得た人間を、
絶対の自由者 「天帝の縛めから解放された人間 」と呼んだものだ。
と言っている。
当時の儒家の人達が 「修身、治国、平天下」 と奮起していることに対しての 、
荘子の「そう力まないで」 と往なした言葉である。
会社等で、 ノルマや目標に追い立てられて
あくせく生きることだけが 人生ではない。
もちょっと、 のんびりと人生を楽しむことも 必要だと!
努力、精進は勿論必要だが・・・充実した人生を考えたときに、
この「荘子」の 思考の必要性も大きく感じる。
莊子 譲王篇に「窮もまた楽しみ、通もまた楽しむ」とある。
人生は楽しむためにある。楽しみなくて、なんの人生ぞや-
これが中国流である。その楽しみであるが、ふつう、
経済的に余裕があれば楽しめるし、余裕がなかったら
思うように楽しめないと思われている。だが、
『荘子』に言わせれば、人生の達人というのは、
どんな境遇にあっても、
あるがままの人生を楽しんでいるのだという。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)、荘子(養生主篇1~6)
をもとに、自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません