君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず|論語 子路篇|

第七章 人と接するための心得

君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず

 

第七章 人と接するための心得

 

君子くんししてどうぜず、小人しょうじんどうじてせず

ー君子和而不同、小人同而不和ー  論語 子路篇
【論語:十巻二十編。孔子や孔子の門弟の言行を記したもの。儒家の聖典とされている。四書の一つ】

原文:

君子和而不同、
小人同而不和。

書き下し文:

君子はしてどうぜず、
小人はどうじてせず。

君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず


意解:

」とは、自分の主体性を堅持しながら相手を心から深く理解して調和ちょうわすること。
どう」とは、付和雷同ふわらいどう(礼記|「付和ふわ」は信念を持たず、他人の意見に賛同さんどうすること。
雷同らいどう」は雷が鳴れば万物が反応するように、闇雲やみくもに他人の言動に同調すること。
である。

意解すれば、「君子は協調性に富むが、無原則な妥協だきょうはしない。
小人は逆で、頻繁ひんぱん妥協だきょうするが、真の協調性きょうちょうせいには欠けている」となる。

現代でも、日本の企業・組織内で「和」が重要視じゅうようしされているが、
「和」が重要視されるあまり、個人の個性が組織内に埋もれてしまう傾向が強くなる。
孔子のこの一文に照らし合わせてみると、それは、「」というよりも、
どう」に染まっているのかも。

一人一人の主体性が保たれた上で、相手を心から深く理解して調和ちょうわできれば、
真の「」と言えるのではと思える。

孟子 巻第六藤文公章句下 五十二節に
己を枉ぐる者にしていまだ能く人を直くする者はあらず」とある。
「己を枉ぐる」とは、自分の原則を曲げて相手に迎合することであるが、
自分が正しいと信じた原則はあくまでも顕示するという毅然きぜんとしたしせいが
あるべきだ。とくに、教育の場にある者にはこれが望まれる。だが、
現実の場においては、これと同時に、柔軟な融通性ゆうずうせいを併せ持ったほうが
善いのかもしれない。

*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。

私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。