潔きはつねに汚れより出で、 明るきはつねに晦より生ずる|菜根譚|

潔きはつねに汚れより出で、 明るきはつねに晦より生ずる ナオンの言葉の散歩道
潔きはつねに汚れより出で、 明るきはつねに晦より生ずる

第七章 人と接するための心得

 

潔きはつねに汚れより出で、 明るきはつねかいより生ずる

ー潔常自汚出、明毎従晦生也ー  菜根譚 前集 24項
【菜根譚:明の洪自誠編。前集222条では人との交わり、事治、対応の道を説き、後集135条では退静閑居の楽しみを論じている】




原文:

糞虫至穢、
変為蝉而飲露於秋風。
腐草無光、
化為蛍而燿釆於夏月。
固知、潔常自汚出、
明毎従晦生也。




書き下し文:


糞虫ふんちゅう至穢しあいなるも、
へんじてせみとなりてつゆを秋風に飲む。
腐草ふそうひかりなきも、
してほたるとなりてさい夏月かげつ耀かがやかす。
もとより知る、きよきは常によごれより出で、
明るきはつねかいよりしょうずるなり。

潔きはつねに汚れより出で、 明るきはつねに晦より生ずる

潔きはつねに汚れより出で、 明るきはつねに晦より生ずる




意解:


堆肥たいひで湧いた「うじ虫」は極めて汚いが、
羽化うかしてせみになり秋風のなかで露を飲む。
腐草ふそうは光はないが、して蛍になり、
夏の月夜に光彩こうさいかがやかす。

もとよりわかる、
潔いものは常に汚れたものから生まれ、
明るいものはごとに暗いものから生まれる。

人は皆、無限の可能性を秘めている。
変身する可能性の芽を摘むことの無い様に、
自他ともにありたいものですね。

論語 子罕 第九 23にも「後生畏るべし」とある。
人の進歩は、 はかることができない 「後生畏こうせいおそるべし」若いからといって
見くびってはいけない、彼等の将来がわれわれの現在に及ばないと
誰がいい得よう。といういましめでもある。

*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。

私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。