学びて然る後に足らざるを知り、教えて然る後に困しむを知る|礼記|

第二章 自己を高める

学びて然る後に足らざるを知り、教えて然る後に困しむを知る
ー学然後知不足、教然後知困ー 礼記 学記
(礼記:四十四篇。周末秦漢時代の礼に関する理論及び実際を記録編集したもの。前漢の戴聖によって伝えられた。「小戴礼」又は「戴記」ともいわれる。五経の一つ)
{原文}
雖有嘉肴、
弗食不知其旨也。
雖有至道、
弗學不知其善也。
故學然後知不足、
教然後知困。
{書き下し文}
嘉肴有りと雖、
食ざればその旨さを知らざるなり。
至道有りと雖、
學ざればその善を知らざるなり。
故に學びて然後足らざるを知り、
教えて然後困しむを知る。

{意解}
「学びて然る後に足らざるを知る」様々な事を学ぶことに因って、
はじめて自分の知識や経験がいかに足りないかを知り、
「教えて然る後に困しむを知る」人に教える時になってはじめて、
教えるものとしての自分の未熟さと努力の必要度を思い知らされる。
五経の一つ「礼記」の一文である。
主観的ではあるが、私たちはとかく、 何か自分の身につけるときに
学問として己に落とし込むのではなく、知識として詰め込むほうが
優先的になっているようである。 人に教える立場で有る人は、
人としての倫理、道徳観を自覚し、有るべき姿を心と体に染み込ませ、
その後で、その職種に必要な知識を身につけていけば良いのでは、と思える。
補足:
教育の要は人生の本来に無きものを造りて之に授るに非ず、
唯有るものを悉皆発生せしめて遺すことなきに在るのみ。
福沢諭吉『福翁百話』
人としての立ち居振る舞い、 日常生活における分別ある行動、
倫理、道徳観といったことがまず初めに有り、
学問的なことはその次であると考える。と云っている。
どんな職業に就いたとしても、 特定の資格を取得した後も
学ぶことに終わりはなく、継続して学んでいく必要があり、
その継続の先に、 本来の生き方、人格、
在り方というものが見えてくるのではと思われる。
「足らざるを知る」も、「困しみを知る」ことも自分を戒め、
育てる一歩だろう。
老子 上篇 33章にも
「人を知る者は智なり、自らを知る者は明なり」とある。
日々、すれ違う人にも顔つき、行動、態度、等で
和気、殺気を感じた事もあると思う。ましてや、
身近な人であれば心の状態をも伝わってくる。
人を知る(理解する)のも難しいが、
自分を知ることのほうが遥かに難しい。
人のことは解っても、
自分のことは診えていないのが普通であるが、
それでは事に当たって的確な判断をすることが難しい。
*悉皆:残らず。すべて。
参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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