第四章
知の難きに非ず、知に処するは則ち難し
ー非知之難也、処知則難也ー 韓非子 説難第一二
(韓非子:二十巻五十五編。戦国時代の韓非の選。先秦時代の法家の学を集大成し、それに韓非の考えを加えたもの。はじめは「韓子」と称したが、宋以降、唐の韓愈と区別するため、「非」の字を加えた。)
{原文}
宋有富人。天雨牆壊。
其子曰、
「不築、必将有盗。」
其隣人之父亦云。
暮而果大亡其財。
其家甚智其子、而疑隣人之父。
此二人者、説皆当矣。
厚者為戮、薄者見疑。
則非知之難也、処知則難也。
{書き下し文}
宋に富人あり。天雨ふり牆壊る。
其の子曰はく、
「築かざれば、必ず将に盗有らんとす。」と。
其の隣人の父も亦云ふ。
暮れて果して大いに其の財を亡ふ。
其の家甚だ其の子を智とし、而るに隣人の父を疑ふ。
此の二人は、説は皆当たる。
厚き者は戮され、薄き者は疑はる。
則ち知の難きに非ず、知を処するは則ち難きなり。
{意解}
知ることは難しくない、知ったあとでどう対処するかが難しいのだという。
情報収集よりも情報管理(情報処理)のほうが難しいということである。
例として「韓非子 説難第一二」を揚げている。
宋の国に金持ちの家があった。
ある日、大雨で塀が壊れたのを見て、息子が語った。
「塀を修理しないと、必ず泥棒に入られてしまう」
隣家の主人も同じことを言ってきた。
その晩に、やはり、泥棒にはいられて、
ごっそり盗まれてしまった。
金持ちは、息子の賢さに感心したが、
同じことを言った隣家の主人に対しては、
「あの男が、犯人ではないか」と、疑った。
親切に教えてやったのに、あらぬ疑いまでかけられるとは、これほど割に合わない話はない。私たちの周りにも、結構これに類する話が転がっている。「韓非子」によれば、それはみな「知に処する」道を誤ったことに起因するのだという。あらぬ誤解を招かぬためにも、言葉には気をつけたいものである。
列子 鬳斎口義 説符篇に「疑心、暗鬼を生ず」とある。疑わしき目で見れば、すべてのことが疑わしく思われてくるのだという。自分の思い込みで、 罪のない者まで疑わしく見えたという話である。これに類する話は、誰にでもあるだろう。誤った偏見や先入観によって判断を惑わされるのである。自分の判断力でも、無条件の信頼など置かない方が良いのかもしれない。
文選 古楽府 君子行には「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」とある。人から疑われる原因を、自ら作っているようなケースもあるように思う。たとえば、不注意な言動とかふしだらな行為などは、人の疑いを招きやすい。それを避けるためには、普段から厳しく自分を律する必要がある。人から疑われて得になることは、一つもないのである。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。