不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し|論語 述而|

第一章 大きく生きる
不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し
ー不義而富且貴、於我如浮雲ー 論語 述而
(論語:十巻二十編。孔子や孔子の門弟の言行を記したもの。儒家の聖典とされている。四書の一つ。)
{原文}
子曰、
飯蔬食飲水、
曲肱而枕之、
楽亦在其中矣。
不義而富且貴、
於我如浮雲。
{書き下し文}
子曰く、
蔬食を飯らひ水を飲み、
肱を曲げて之を枕とするも、
楽しみも亦其の中に在り。
不義にして富み且つ貴きは、
我に於いて浮雲の如し。

{意解}
孔子の述懐である。
「悪いことをして金や地位を手に入れ、贅沢な暮らしをするのは
私から見れば空に浮かぶ雲みたいなのもである」 と語る。
物質面でいくら充実させても
それが不正な手段で獲得したものであれば 尚更である。
”心の楽しみは得られない”人生を楽しむとは、どういうことなのか!
孔子はこの文章の前段で語っている
「疎食を飯らい、水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみまたその中に在り」
雑炊をすすり、白湯を飲み肱を枕にごろ寝する。
このような貧乏暮らしの中にも楽しみがある。という。
真面目に働いて暮らす人々にとって心の励ましになるにちがいない。
莊子 譲王篇に「窮もまた楽しみ、通もまた楽しむ」とある。
昔の有道者は、逆境にあろうと順境にあろうと、
そんなことにはとらわれないで人生を楽しんだ。
楽しみというのは、逆境だから楽しめない、
順境だから楽しめるというものではないと云う。
人生は楽しむためにある。楽しみなくて、なんの人生ぞや-
これが中国流である。
その楽しみであるが、ふつう、経済的に余裕があれば楽しめるし、
余裕がなかったら思うように楽しめないと思われている。だが、
『荘子』に言わせれば、人生の達人というのは、どんな境遇にあっても、
あるがままの人生を楽しんでいるのだという。
参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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