大禹は聖人にして乃ち寸陰を惜しめり、衆人に至ってはまさに分陰を惜しむべし|十八史略|

第八章 リーダーの心得
大禹は聖人にして乃ち寸陰を惜しめり、
衆人はまさに分陰を惜しむべし
ー大禹聖人乃惜寸陰、至於衆人当惜分陰ー 十八史略 晋書
【十八史略:七巻。元の曾先之の撰。十八史略とは、十八史の要略の意で、
太古から南宋までの四千年間の史実を簡略に記し、初学者の課本に供したもの。】
原文:
大禹聖人、
乃惜寸陰。
至於衆人、
当惜分陰。
書き下し文:
大禹は聖人にして、
乃ち寸陰を惜しめり。
衆人に至っては、
まさに分陰を惜しむべし。
*至於:~に至っては

意解:
「禹」は、むかし中国を治めたといわれる聖王。ことばの意味は、
「禹は聖であるにもかかわらず、寸陰(短い時間)を惜しんで仕事に精励した。
まして凡人たる者は、分陰(さらに短い時間)を惜しんでつとめなければならない」
となる。東晋時代の名将陶侃の語ったことばである。
陶侃という人は、みずからにもそのような日課を課したらしい。
その精励ぶりは、仕事のあるうちは一日中膝もくずさず事務をとり、
その日の仕事を翌日に延ばすということがなかった。そのくらいであるから、
部下が酒やバクチで仕事をなまけているのを見ると、
酒やバクチの道具を取り上げて川に投げ込み、
「バクチなど、人間のクズのやることだ」と戒めたという。
いささかヤリ過ぎの嫌いがないでもないが、その気持はわからないでもない。
とくにリーダーには、陶侃の言う「分陰を惜しむ」精励が望まれるのかもしれない。
俚諺に「大富は命に由り、小富は勤に由る」とある。
「命」が意識されるのは、貧困、不幸、夭折(若くて死ぬこと)などの
逆境に陥ったときである。そんなとき、人々は、
心のバランスを回復させる役割を「命」に求め、
これも「命」なのだと自分を納得させてきた。だが、
一方では、人間の努力も無視できない。そこで、
大筋では「命」の存在を容認しながら、
その範囲内で勤勉のメリットを強調しているのが、
この俚諺の趣旨だといってよいかもしれない。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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