感慨して身を殺すは易く、従容として義に就くは難し|近思録|

第二章 自己を高める
感慨して身を殺すは易く、従容として義に就くは難し
ー感慨殺身者易、従容就義者難ー 近思録
(近思録:十四巻。宋の朱熹・呂祖謙の共著。宋の学者、周廉渓・程明道・程伊川の著書や語録の中から六百二十二条を選んだ、初学者用のテキスト)
{原文}
感慨殺身者易、
従容就義者難。
{書き下し文}
感慨して身を殺すは易く、
従容として義に就くは難し。

{意解}
一時の感情に駆られて死を選ぶのはまだやさしい。
難しいのはゆったりと落ち着いて 正しい道を踏み行うことだ、という。
「感慨して」とは、高ぶった感情のままにという意味で、たしかに、
怒り、悲しみ、喜び、これらの感情が高ぶると人間、
生き物、何をやらかすかわからない。
「従容として」とは、感情を高ぶらせること無く、平常心。
「義に就く」とは、「義」に身を置くである。
非常に難しいレベルである。が、人として生きる上で、修養に努めるべきであろう。
儒教における義は、 五常(仁・義・礼・智・信)のとつである。
正しい行いを守ることであり、 人として守るべき正しい道、を表す。
義は個別具体的な行為に対して 正しく報いること。
(恩義:恩に対し正しく報いること、義務 等)
ーWiktionary (マタイ伝)
「耶蘇の曰はく、
幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり
幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん
幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん
幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん
幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん
幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん
幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん
幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり
我がために、人なんぢらを罵り、また責め、詐りて
各様の惡しきことを言ふときは、汝ら幸福なり
喜び喜べ、天にて汝らの報は大なり。
汝等より前にありし預言者等をも、斯く責めたりき
(マタイ伝第五章)」
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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