
言いて当たるは知なり、黙して当たるも知なり
第二章
言いて当たるは知なり、黙して当たるも知なり
ー言而当知也、默而当知也ー 荀子
(荀子:二十巻。戦国時代末期の学者、荀況の書。荀況は孟子に次ぐ大儒。
孟子の性善説に対して、荀況は性悪説を唱えた。)
{原文}
言而当知也、
默而当知也。
{書き下し文}
言いて当たるは知なり、
黙して当たるも知なり。

言いて当たるは知なり、黙して当たるも知なり
{意解}
発言して核心を突く、これは「知」である。
沈黙によって核心を衝く、これも「知」に他ならない。
「荀子」はさらに語って
「多弁だが、発言のひとつひとつがツボを外さない。
これは聖人である。
寡黙だが、発言すれば全て法に合致する。
これは君子である。
これに対し、多弁であれ寡黙であれ、
言うことがでたらめなのは、小人である。」
「黙するを知るは 言うを知るが如し」
沈黙の意義を知ることは、発言の意義を知ること、と言う。
沈黙によって意思を表明することも、 同じくらい重要なのだと。
沈黙の効果、これを知る者は強いということだろう。
発言することは必要であるが、 取るに足らないことを主張するよりは、
沈黙を守ったほうが遥かに説得効果の高いこともありうるのである。
多言は一黙に如かず
(多弁よりも黙っていた方が、かえって気持ちを強く伝えるものである)
黙如雷
(黙って静かにしているだけで、百雷のような力や影響力があること)
身近なことでは、 人生を、経験を、積み重ねてこなければ
見えてこない 感覚がある。
あの人の傍にいるだけで心が癒される、
黙って話を聞いてもらえるだけで安心できる、
自分が迷っている時にそっと背中を押してもらえる、
あなたのまわりにも、 黙して包み込んでくれる、
そんな人がいるものである。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。