歓楽極まって哀情多し|歡樂極兮哀情多|古文真宝 秋風辞|
第四章 着実に生きる
歓楽極まって哀情多し
ー歡樂極兮哀情多ー 古文真宝 秋風辞
(古文真宝:二十巻。宋の黄堅の編。前集は漢~宋代までの著名な詩、後集は楚の屈原~宋代までの著名な辞賦、文章を収めた詩文集。)
{原文}
秋風起兮白雲飛、草木黄落兮雁南歸。
蘭有秀兮菊有芳、懷佳人兮不能忘。
泛樓船兮濟汾河、橫中流兮揚素波、
簫鼓鳴兮發棹歌、歡樂極兮哀情多、
少壯幾時兮奈老何。
{書き下し文}
秋風起って白雲飛び、草木黄落して雁南に帰る。
蘭に秀有り菊に芳有り、佳人を懷うて忘るる能はず。
樓船を泛かべて汾河を濟り、中流に橫たはりて素波を揚ぐ。
簫鼓鳴りて棹歌を發す、歓楽極まって哀情多し。
少壯幾時ぞ老いを奈何せん。
{口語訳}
秋風が立って白雲が飛び、
草木は黄ばみ落ちて雁が南に帰る、
蘭や菊が香るこの季節、
佳人が思い起こされて忘れることができない。
楼船を泛べて汾河を渡り、
中流に横たわって白い波をあげる。
船内は弦歌が鳴り響いて
歓楽が極まるうちにも、なぜか憂いの思いが募ってくる。
若い時期はながくない、年老いていく身をどうすることもできない。
{意解}
漢の武帝の「秋風辞」と題する武帝の詩の一節です。
武帝は、前漢の全盛期、第7代皇帝である。
意のままに何でもできる立場にあり、その楽しみ方も豪奢を極めたに違いない。
その武帝ですら、楽しみの影に忍び寄る「哀情」を如何ともできなかった。
これが人生というものかも知れない。
私たちの楽しみ方など、武帝のそれには遠く及ばない。が、
「歓楽極まって」という思いは、全く一緒である。
座も乱れて落花狼藉の騒ぎになると、楽しみどころか、
荒涼とした思いが募ってくる。
「秋風辞」
秋風にのって香り立つ草花、
思い出される愛しい貴女、
年をとっていく自分、
まさに秋の心、愁いの季節なのだろう。
「礼記」も(楽しみは極むべからず)
「菜根譚」も(花は半開を看、酒は微酔に飲む)
と戒めている。
楽しみに溺れて無駄に時を過ごしてはならないということでもある。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。
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