
愛は憎しみの始め、徳は怨みの本なり
第七章
愛は憎しみの始め、徳は怨みの本なり
ー愛者憎之始也、徳者怨之本也ー 管子 枢言篇
【菅子:二十四巻。春秋時代の前期、斉の桓公に仕えた宰相管仲とその門下の撰。
政治の大本は富民で、立法や布教はそれに次ぐということを説いている】
原文:
衆人之用其心也、
愛者憎之始也、
徳者怨之本也。
唯賢者不然。
書き下し文:
衆人これその心を用いるなり、
愛は憎しみの始め、
徳は怨みの本なり。
唯、賢者は然らず。

愛は憎しみの始め、徳は怨みの本なり
意解:
「愛は憎しみの始め」
流行歌の文句にでもありそうな言葉だが、
実は今から二千数百年も前にまとめられた「管子」にある言葉である。
今も昔も人生の機微、人間関係の機微は
変わっていないのかもしれない。
ではなぜ愛が憎しみの始めになる、徳が怨みの本になるのか。
「管子」によれば、報いられることを期待するからだという。
つまり欲が絡むからである。
たとえば親子の愛情である。始めは純粋な愛情から出発しても、
だんだん親の期待が芽生え、子供の思惑が絡んでくると、
せっかくの愛情も憎しみに変わりかねない。
徳にしても、本来は自分のためのものである。
そのへんを錯覚すると、これまた怨みの本になりかねない。
「管子」は、このことばを挙げた後で、
「ただ賢者は然らず」という一句を付け加えている。
日々の生活環境に於いて、
常にこの危険性はつきまとっている。
無償の愛情を心に留め、常に自己を知り、
より善い選択(決断)ができるようにありたいですね。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。