第二章 自己を高める
貧しくして怨む無きは難く、富みて驕る無きは易し
ー貧而無怨難、富而無驕易ー 論語 憲問第十四の十一
(論語:十巻二十編。孔子や孔子の門弟の言行を記したもの。
儒家の聖典とされている。四書の一つ。)
{原文}
子曰、
貧而無怨難、
富而無驕易。
{書き下し文}
子曰く、
貧しくして怨む無きは難く、
富みて驕る無きは易し。
{意解}
人間は誰しも不遇な状態におかれると、何故、私だけこんな目に合うのかと
惨めな思いを抱くものだ。人を恨み、天を恨む。これは人の自然な感情であって
それを抑え切れることは、余程、できた人物でも難しい。
孔子自身も、幼い時父を亡くし、幼少時より、貧乏生活に耐え、
貧乏暮らしの辛さ、苦しさを体験しながら 成長した。
こういう逆境に育った孔子であるが故に
「貧しくして恨む無きは難く」 の実感が伝わってくる。
それに比べれば、地位も財産も有る恵まれた状態に在って
人を見下すような態度をとらないことは
甚だできた人物だと評価できる。が、
それは、まだ易しいことだと、言う。
人の内なる心理学の本質かもしれない。
朱子家訓! に下記の一文がある
勿称忿而報横逆,勿非礼而害物命。
私怨を抱き、報復することなかれ。
礼を失し、物命を害うことなかれ。
省みて、仁の心を呼び覚ます時だろう。
*朱子家訓*
勿以善小而不為、 | 善が小さきことを以って為さぬことがないようにし、 |
勿以悪小而為之。 | 悪の小さきことをもって為すことがないようにせよ。 |
君之所貴者,仁也。 | 君主の尊ぶところは仁なり。 |
臣之所貴者,忠也。 | 臣下の尊ぶところは忠なり。 |
父之所貴者,慈也。 | 父の尊ぶところは慈なり。 |
子之所貴者,孝也。 | 子の尊ぶところは孝なり。 |
兄之所貴者,友也。 | 兄の尊ぶところは友なり。 |
弟之所貴者,恭也。 | 弟の尊ぶところは恭なり。 |
夫之所貴者,和也。 | 夫の尊ぶところは和なり。 |
婦之所貴者,柔也。 | 妻の尊ぶところは柔なり。 |
事師長貴乎礼也, | 目上の者や師に仕えるには、礼を貴び、 |
交朋友貴乎信也。 | 朋友との交わりは信頼を貴べ。 |
見老者,敬之;見幼者,愛之。 | 老を見れば之を敬い、幼き者を見れば之を愛せ。 |
有徳者,年雖下于我,我必尊之。 | 徳の有る者は、年少者であっても、必ず之を尊べ 。 |
不肖者,年雖高于我,我必遠之。 | 不肖の者は、年長者であっても、必ず之を遠ざけよ。 |
慎勿談人之短,切莫矜己之長。 | 慎んで、人の短所を談じることをなかれ、決して己の長ずるところを誇ることなきように。 |
讐者以義解之,怨者以直報之,随所遇而安之。 | 仇を抱くものは、義をもって之を解くようにし、 怨みを抱くものは、率直さをもって之に報い、 遇うところに随って(状況に応じて)之を安んじよ。 |
人有小過,含容而忍之。 | 人に小さな過ちあれば、容を含んで之を忍ぶべし(寛大な心でこれを許せ) |
人有大過,以理而諭之。 | 人に大きな過ちあれば、理を以って之を諭せ。 |
人有悪,則掩之。 | 人に悪あれば、これを掩え。(庇いなさい) |
人有善,則揚之。 | 人に善あれば、これを揚げよ。(称揚せよ) |
処世无私讐,治家无私法。 | 私怨なくして世に処し、私法なくして家を納めよ 。 |
勿損人而利己,勿妬賢而嫉能。 | 人を損ない、己を利することなかれ。人の賢を妬み、能に嫉することなかれ。 |
勿称忿而報横逆,勿非礼而害物命。 | 私怨を抱き、報復することなかれ。礼を失し、物命を害うことなかれ。 |
見不義之財勿取,遇合理之事則从。 | 不義(不正)の財を見れば、取る事なかれ。理にかなったことであれば、従え。 |
詩書不可不読,礼義不可不知。 | 詩書を読まなければ、礼儀を知ることはできない。 |
子孫不可不教,童僕不可不恤。 | 子孫を教育しなければ、童僕を救い養うことはできない。 |
斯文不可不敬,患難不可不扶。 | 学問を敬わなければ、艱難を扶けることは出来ない。 |
守我之分者,礼也。 | 我の本分を守る者は、礼である。 |
聴我之命者,天也。 | 我の命を聴く者は天である。 |
人能如是,天必相之。 | 人がこの(家訓の)ようにできれば、天は必ず之を知るところとなる。 |
此乃日用常行之道, 若衣服之于身体, | このことを日々日常の中で実践し、 衣服をまとうように、 |
飲食之于口腹, 不可一日无也, 可不慎哉! | 食事をするように、一日たりとも怠ってはならない。 慎むように! |
身の引き締まる朱子家訓である。
朱子学の概要
朱熹(朱子学の大成者)はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、 程伊川(儒学者)による性即理説{性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする}、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅(より一歩進めて精神を高めることにつなげる修行法)への批判と、それと異なる静座(心身を静かに落ち着けること)という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。
そこでは自己と社会、自己と宇宙は、“理”という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。
なお朱熹の言う“理”とは、「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は“不離不雑”の関係である」とする。 また、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩序を与える」とする。
この理を究明することを「窮理」とよんだ。朱熹の学風は 「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」というものであり、極めて理論的であったため、後に
「非実践的」「非独創的」と批判された。
しかし儒教を初めて体系化した功績は大きく、タイム誌の「2000年の偉人」では数少ない東洋の偉人の一人として評価されている。
*形而上:形がなく、感覚ではその存在を知ることのできないもの。時間、空間を超越した、抽象的、普遍的、理念的なもの。
*形而下:感性的経験で知り得るもの、形をそなえているもの。
参考資料:ウィキペデア「朱子学」
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。