第八章
明極まれば、則ち察に過ぎて疑い多し
ー明極則過察而多疑ー 近思録 警戒第七
【近思録:十四巻。宋の朱熹・呂祖謙の共著。宋の学者、周廉渓・程明道・
程伊川の著書や語録の中から六百二十二条を選んだ、初学者用のテキスト】
原文:
睽極則咈戻而難合、
剛極則躁暴而不詳、
明極則過察而多疑。
書き下し文:
睽極まれば則ち咈戻にして合い難く、
剛極まれば則ち躁暴にして詳からず、
明極まれば則ち察に過ぎて疑い多し。
意解:
道理は相応ずるものだが、「睽」は背き合うので道理が通じない。
こちらが親切で言っても、相手はそれを聞かない。
「剛」は手強いのが極まれば手荒になる、わけもなく呵り散らす。
上から目線での上司にみうけられる。
「明」は洞察力である。よく「頭が切れる」とか、「切れる人物」と言うが、
あの「切れる」というニュアンスがこの場合の「明」に近いかもしれない。
之は世の中を生きていくうえで必要な条件の一つであるが、
この「明」も研ぎ澄まされ過ぎる(過ぎた察|過察)と、勘ぐりすぎて、
他人の思ってもいない懐を探ったり、疑いばかり深くなるのだという。
「明」には多疑はなく、それは過察(過ぎた察)からのものである。
「明」はリーダーにとってぜひとも必要な条件であり、
これがなかったら、たちまち組織の舵取りに失敗してしまうだろう。
だが、「察に過ぎて疑い多し」とならぬように、
三極悪「睽極咈戻、剛極躁暴、明極過察」とならぬように、心すべきであろう。
*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。
私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。