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杞憂|列子|いらぬ心配(杞憂)であるのか、必要な心配であるのか。

杞憂 第三章 社会を考える
杞憂

第三章 社会を考える

 

杞憂きゆう

ー杞憂ー  列子
【列子:八巻。戦国初期の鄭のひと列御冠の撰とされているが、
偽作説もあり。別名「沖虚真経」】




原文:

杞憂

書き下し文:

杞憂きゆう

杞憂

杞憂




意解:

むかし、杞という国のある男が、いまに天と地が崩れてきたらどうしようかと、
心配で夜もおちおち眠れなかった。見かねたある男が、
「天は気が積もってできているのだから、そんなに心配はないさ」となだめたが、
それでも心配でならない。「でも、日や月や星が落ちてこないかね」
「いや、日や月や星もみな気でできている。たとえ落ちてきてぶつかっても、
怪我などするわけはないよ」これを聞いて、
男は初めて安堵し胸をなでおろしたという。

この話から「杞憂」(取り越し苦労)ということばが生まれたわけだが、
はたして、いらぬ心配(杞憂)であるのか必要な心配であるのか、
それほど単純ではない。

この男の時代は、天地の崩壊は杞憂にすぎなかったが、
現代では杞憂どころか、はなはだ現実味を帯びた話になっている。
杞の男の心配を笑うことはできない。

漢書 蘇武伝に「人生は朝露の如し」とある。
人の一生は、朝露のようにはかないもの。
人生は儚く短いことを嘆いたことばである。
思い悩んで過ごす時も短い人生からすればほんの一瞬だ、
人それぞれ思い悩むことはあると思われるが
考えすぎずに心にゆとりを持つことも必要に思われる。

*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。

私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。